吹屋ふるさと村

Fukiyafurusatomura

日本有数の銅とベンガラ産地として栄えた吹屋は、朱色の外観で統一された町並みが残る伝統的建造物群保存地区です。

楯築遺跡

Tatetsukiiseki

自然地形を利用し盛り土を行って整えられた墳丘の規模は,現在知られている弥生時代の墳丘墓としては最大級です。

箭田大塚古墳

Yataootsukakofun

岡山県下三大巨石古墳のひとつ。内部にある石室は、巨大ないくつもの石を精密に組み合わせた横穴式の大空間で、入口の羨道とその奥の玄室に分かれています。

楪城址

Yuzurihajoato

南北朝時代初期、新見氏が築城したとされる連郭式山城で、備中北部では備中松山城に次ぐ規模を誇る。

猿掛城址

Sarukakejo

猿掛城は、標高239メートルの中世以来の山城です。高松城水攻の際、毛利氏の本陣となった山城としても知られています。

興譲館

Kojokan

桜渓塾は、阪谷朗廬(さかたにろうろ)が開いた塾。その後。領主一橋家の招きで興譲館の初代館長となった。

小田県庁跡

Odakenchoato

笠岡小学校の敷地は明治時代の小田県庁跡であり、当時の正門だった建物が今も残されている。笠岡市指定史跡。

長福寺裏山古墳群

Chofukujiurayamakofungun

長福寺裏山古墳群は、5世紀から6世紀にかけて勢力を拡大させた豪族の墓である。笠岡市指定史跡。

大原古墳群

Oharakofungun

大原地区(里庄町里見)の虚空蔵山南斜面一帯にある古墳群。六世紀末の後期古墳が十数基残る。

鳶尾城址

Tobiojoato

戦国時代の周防国山口の大内氏にまつわる出城。平成5年に復元された山城跡に物見やぐらと石碑が設置されています。

戦後時代武将 細川通董墓所

Sengokujidaibusho Hosokawamichitada

戦国時代から安土桃山時代にかけて備中国浅口郡を統治していた武将・細川通董。墓所は、貴重な史跡として現在に伝わっている。

鬼ノ城

Kinojo

古代山城の鬼ノ城(国指定史跡)は、西門建物復元などの史跡整備がなされており、「温羅伝説」の地でもあります。

戸川家陣屋跡

Togawakejinyaato

宝永6年(1709)、に完成した旗本戸川家の陣屋跡です。明治維新後に取り壊されましたが、堀の一部とそれにかかる石橋が残存しています。

矢掛嵐山

Yakagearashiyama

「夏くれば屋影の淵の涼しさに行交ふ人は過ぎがてにする」一説には矢掛の地名の由来となったともいわれるこの歌は治暦4(1068)年に行われた大嘗祭に藤原経衡が奏上した和歌である。交通の要衝として知られる矢掛の平安時代後期ののどかな風景が目に浮かぶ。現在の矢掛の町並みは小田川に沿った自然堤防上にあり、江戸時代初めに西国街道(旧山陽道)の宿場町として形態を整えていく。屋敷は間口が狭く、奥行の長い、「うなぎの寝床」と呼ばれる短冊形の地割りで、今でも通り土間を持つ妻入りの町家が健在である。本陣や脇本陣をはじめ江戸時代の旧姿をとどめた町並みは岡山県町並み保存地区に選定されている。また、近年、徳川13代将軍家定の正室天障院篤姫が輿入れの際、旧矢掛本陣に宿泊した記録(石井家文書)が見つかり話題となった。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.13

高梁基督教会堂付近

Takahashikirisutokyokaidofukin

明治40(1907)年頃の高梁基督教会堂と紺屋川周辺を撮影した。教会堂には現在のような鐘楼はなく、また、河岸には桜ではなく、柳の並木が見える。教会堂の川を隔てて北西側には藩校有終館跡(現高梁幼稚園)がある。キリスト教が高梁に伝わったのは、明治12(1879)年10月、当地選出の岡山県会の議員柴原宗助の尽力により、金森通倫(1857~1945)と中川横太郎(1836~1903)が伝導を行ったことによる。翌年、同志社創立者新島襄(1843~1890)の伝導を経て、同15(1882)年4月に高梁キリスト教会が創立した。同22(1889)年に現在の場所に教会堂が建てられた。現在、岡山県に現存する最古のキリスト教会堂として岡山県指定史跡となっている。現在、教会堂には昭和39(1964)年に設置された北海道にある札幌市時計台を模した鐘楼があり、護岸には桜が並木をつくり、紺屋川を彩っている。

時代明治40(1907)年頃
参考文献高梁川流域今昔写真展p.13

吉岡鉱山専用軌道(成羽トロッコ道)

Yoshiokakouzansenyokido(nariwatorokkodo)

明治45(1912)年6月に撮影された吹屋の吉岡銅山から産出する銅鉱石などを運搬するために設けられた鉱山専用軌道(トロッコ道)の様子。トロッコとは軽便軌道の上を、手押しで走る小型の貨車のことをいう。明治41(1908)年9月、軌道は備中町田原~成羽町古町間に敷設され、開通した。全長約16kmで、田原、古町には停車場が設けられた。特に成羽川左岸の備中町市原付近は岩盤がそそり立ち、岩を掘削して道をつくる難工事であった。写真はその市原付近を写しており、工事の犠牲者を供養して刻まれた「南妙法蓮華経日蓮大土」の文字が見える。トロッコは一般的には一人押しで、銅山関係の物資が運搬されたが、程なく一般貨物や人を運ぶことも行われた。また、物資増加に伴い、成羽町坂本まで延長され、5~6台連結の馬トロッコも利用された。現在、線路は取り外されているが、道筋は比較的よく残っている。

時代明治45(1912)年6月
参考文献高梁川流域今昔写真展p.11

高梁の町並み(明治40年ごろ)

Takahashinomachinami(meiji40nengoro)

明治40(1907)年頃の高梁の町並みを撮影。高梁川西岸からサーカットカメラを用いて撮影されたパノラマ写真と思われる。城下町は城を中心として発達した町のことで、戦国時代後期に戦国大名などが家臣団を集住させ、商人を集めて形成され、支配の拠点とした。近世になり城が山から平地にしかも大規模に造られるようになると、城下町もそれとともに平地に移り規模が大きくなった。しかし、備中松山城は中世に最も顕著に現れた「山城」で、「根小屋式城郭」の典型でありながら、近世城郭化した数少ない城の一つである。従って、城下町も中国地方の山間部に営まれるようになった。四方を標高400m前後の山々に囲まれ(市街地は標高60~70m)、南北3km、東西1kmの盆地の西側を北から南ヘ高梁川が流れ、その東岸に城下町は発達した。写真はまだ高梁川に橋は架けられておらず江戸時代の松山河岸の風景をよく伝えている。

時代明治40(1907)年頃
参考文献高梁川流域今昔写真展p.12

名歌・幾山河誕生の地「二本松峠」

Meika・ikuyamakawa tanjo no chi 「nihonmatsutoge」

1907年、歌人・若山牧水が宮崎県への帰途、二本松峠(広島県との境の峠)で名歌「幾山河」を詠まれました。

高梁基督教会堂

Takahashikirisutokyokaidofukin

高梁基督教会堂は、明治22年に建てられた現存する県内最古の教会堂で、高梁で最初の擬洋風建物である。

マップ内関連記事高梁基督教会堂付近

洞松寺

Doshoji

洞松寺は、矢掛町横谷にある曹洞宗の禅寺で、応永19(1412)年に喜山性賛(きさんしょうさん)という僧が開山しました。また、中世の貴重な古文書史料が「洞松寺文書」として保存されており、歴史的評価が高く、岡山県重要文化財に指定されています。

マップ内関連記事洞松寺

吉備公ゆかりの地 下道氏の墓

Kibikoyukarinochi

吉備真備公の顕彰のため、吉備公館址と伝えられる場所に吉備真備公園が整備されています。また、江戸時代には吉備真備公の祖母の骨壺が矢掛町東三成の小さな丘で出土しています。

高越城跡

Takakoshijoseki

高越城址は、北条早雲(ほうじょうそううん)が青年時代を過ごしたとされている高越城の城跡である。

井山宝福寺

Iyamahohukuji

井山宝福寺は,七堂伽藍を整えた臨済宗東福寺派の禅宗寺院です。画聖雪舟が幼少期修行をした寺としても有名です。

宇喜多堤跡

Ukitadutsumiato

今から約400年前、宇喜多秀家の命により築かれた汐止めの堤です。堤は「宇喜多堤」と呼ばれ、現在の早島を走る県道倉敷妹尾線はこの堤の跡と言われています。

代官 井戸平左衛門の墓

Daikan idoheizaemonnohaka

井戸平左衛門正明は、世に「いも代官」と呼ばれた名代官です。享保16(1731)年、60歳にして石見国大森いわみのくにおおもりの代官に任命され、翌17年、備中国笠岡代官を兼務します。時に西日本一帯はウンカの大発生によって未曾有の大飢饉となっていました。
平左衛門は事態が一刻を争うと判断して、幕府の命令を待たずに独断で陣屋の蔵を開き「米はらい」をしたといわれます。また、被害の大きな村々の年貢を減免しました。さらに、やせ地でもとれる食物として甘藷(サツマイモ)を導入して、飢饉をしのぎました。
これらの優れた施策によって、井戸代官の支配地からは、ひとりの餓死者も出さなかったと伝えられます。享保18(1733)年5月、笠岡で病死し、各地に数百基の顕彰碑が立てられました。墓は笠岡の曹洞宗威徳寺いとくじにあります。墓前に立つ2基の石灯籠は、笠岡と石見国大森の村人が寄進したものです。

時代江戸
指定年月日昭和49年7月30日
所有者・管理者威徳寺
所在地笠岡市笠岡

敬業館の跡

Keigyokannoato

笠岡の八幡平にあった敬業館は、江戸時代に開かれた庶民のための教諭所です。
 当時の笠岡代官・早川八郎左衛門正紀はやかわはちろうざえもんまさとしは、領民教育に熱心な人で、管内の有識者から建学懇願所が提出されたのを受けて、寛政9(1797)年、学館の建設に着手しました。学館は翌年春に完成し、陣屋稲荷宮じんやいなりぐうの宮司であった小寺清先きよさきが教授に任命されました。
 その後、清先の子の廉之かどゆきが2代目教授となりました。さらに、廉之の子の完之かんしが3代目教授となったが学館の維持経営が困難となり、私塾となります。明治16(1883)年に学館は閉鎖されました。
 現在史跡地内には、近年復元した塾舎(生徒の寄宿舎)1棟と、石碑2基が残っています。「思徳之碑」は、早川代官の徳を慕って立てられたもので、文章は小寺清先、筆者は頼山陽らいさんようです。「楢園先生之碑しゅうえんせんせいのひ」は、初代教授小寺清先(楢園)の学徳をたたえたもので、文章・筆はともに頼杏坪らいきょうへいです。また、敬業館跡の西側に小寺家の墓地があります。

時代江戸
指定年月日昭和38年12月25日
所有者・管理者笠岡市
所在地笠岡市笠岡

御獄山量剛寺跡

Mitakesanryogojiato

御獄山みたけさんは、大島中と西大島との境界に位置する標高約320mの名山です。市内で2番目に高い山で、瀬戸内海国立公園の一角でもあります。
山頂には祈雨神社きうじんじゃがありますが、その境内が量剛寺跡りょうこうじあとです。古いお寺の跡で、礎石や布目瓦が見つかっています。平安時代、円人上人えんにんしょうにん(慈覚大師)が唐から帰国の途上、この山頂に一寺を建立し「御滝山量剛寺」と称したが、その後廃絶した伽藍跡と伝えられています。
なお、祈雨神社は御滝神社の摂末社せつまつしゃにあたります。御滝神社は山頂から少し下った山林中にあり、寛文6(1666)年の創建と言われており、神秘的な雰囲気があります。

時代平安
指定年月日昭和49年7月30日
所有者・管理者祈雨神社
所在地笠岡市西大島

延福寺跡

Enpukujiato

持宝院じほういんは真言宗のお寺で、「走出のお薬師さん」として、古来より病気、特に眼病におかげがあるとして、広く信仰を集めてきました。この場所にはかつて延(または円)福寺と称する寺院がありました。その開基は古く平安時代と伝わっています。南北朝時代には「延福寺山合戦」の戦場となり、痛手を被ったものの、その後室町時代には再び栄えました。記録には、碇光坊ていこうぼう(現在の明王院)など12坊の名が記されています。
しかし、延福寺は江戸時代初め頃には衰微したようです。そして寛文12(1672)年、後月郡上出部村かみいずえ(現・井原市)にあった持宝院が、寺を再興するにあたり、水害のある上出部の地から出て、山上にあり本尊がともに薬師如来で薬王寺と称する延福寺の跡へと移転してきました。こうして、延福寺跡は持宝院の境内となって今日に至っています。

時代平安
指定年月日昭和36年10月4日
所有者・管理者持宝院
所在地笠岡市走出

古代住居跡(王泊遺跡)

Kodaijukyoato(odomariiseki)

笠岡市の高島たかしまでは、古事記・日本書紀に記された神武天皇ゆかりの地「高島宮」であるという伝説が、古くから伝わっていました。その証明のために昭和18(1943)年、愛媛県の人、鵜久森經峯うくもりけいほう氏が招かれて、王泊地区にある高島神社境内の発掘調査を行いました。同年、要請に応じて、東京大学や京都大学の人たちも発掘調査を行いました。その結果、古墳時代の土師器・須恵器・製塩土器などが多数出土し、考古学的には大きな成果をあげました。
なお、当初「住居跡」とされていた炉跡ろあとは、現在では製塩炉であったと考えられています。

時代古墳
指定年月日昭和33年4月25日
所有者・管理者高島神社
所在地笠岡市高島

長福寺裏山古墳群

Chofukujiurayamakofungun

長福寺裏山古墳群は、5世紀に築造された笠岡市内最大規模の古墳群です。笠岡市走出はしりで・山口地区の境をなす丘陵上に、現在知られているだけでも11基の古墳が点々と築かれています。これまでに、昭和36(1961)年と平成9年~12年に発掘調査が行われ、副葬品、墳丘や埋葬施設などの状況が明らかになっています。本古墳群は、吉備地域の中枢部からやや離れた地域で、この時期に急速に台頭した首長勢力の存在がうかがえるものであり、重要な遺跡です。
現在では、「かさおか古代の丘スポーツ公園」の一角として遊歩道が整備され、気軽に見学することができます。

時代古墳
指定年月日昭和38年12月25日
所有者・管理者笠岡市
所在地笠岡市走出・山口 

関戸の廃寺跡

Sekidonohaijiato

飛鳥時代に創建された寺院の跡です。今では大部分が水田となっていますが、発掘調査の結果、金堂や塔の跡などが確認され、おおよその伽藍配置が明らかになりました。また、出土した瓦から7世紀後半に金堂、次に塔が建立されたと考えられます。建物の瓦溜まりに混じって出土した土器から、平安時代の11世紀に主要な建物が失われたことがうかがえます。
 現在廃寺跡を訪れると、露出している巨大な礎石が目に付くが、これは塔の中央にある柱の礎石です。また、寺院であった頃の敷地の区画が、今でも水田の畦の形に反映されているのは興味深いものです。
 主な出土品は、笠岡市立郷土館に展示されています。

時代飛鳥~平安
指定年月日昭和38年8月1日
所有者・管理者笠岡市
所在地笠岡市関戸

長尾山神護寺

Nagaosanjingoji

来迎院らいごういん神護寺は、真言宗大覚寺派に属する寺です。創立・沿革については不詳ですが、もとは「神宮寺じんぐうじ」と呼ばれていました。神宮寺は、大坊・中坊・般若坊・正円坊・長福坊・上学坊じょうがくぼうの六つの坊をもつ大寺院でした。長尾山には大坊だけが残り,今日の神護寺となりました。
現在、神護寺の境内は庭園として美しく整えられています。また、本堂は永禄11(1568)年に小田高清おだたかきよによって再建された笠岡市内で最も古い木造建築物であり,岡山県重要文化財に指定されています。

指定年月日史跡: 昭和35年12月26日 建造物: 平成13年3月23日
所有者・管理者神護寺
所在地笠岡市甲弩

大飛島洲の南遺跡 

Ohishimasunominamiiseki

大飛島洲の南遺跡は、古代に海上交通の安全祈願をした祭祀遺跡と考えられています。かつての飛島小中学校の校庭に位置しています。
昭和37(1962)年に、校庭に鉄棒を設置しようと地面を掘っていたところ、銅鏡・銅銭・土器類が出土し、発見されました。その後、4回にわたって発掘調査が行われ、奈良時代から平安時代の様々な遺物が出土しました。銅鏡、奈良三彩、皇朝十二銭、ガラス製品など、全国的に見ても宮廷や寺院などでしか出土しない貴重な品が含まれており,朝廷と直接係わりのある人たちによって祭祀が行われていたと考えられます。遣唐使の無事を祈る祭祀が行われていたのかもしれません。

時代奈良~平安
指定年月日昭和38年12月25日
所有者・管理者笠岡市
所在地笠岡市大飛島

青佐山台場跡

Aosayamadaibaato

青佐山台場跡は、水島灘を一望できる青佐山の中腹に築造されています。東南方の海に向けて張り出した、高さ約2mの土塁の間から二つの砲門を持つものです。池田家文庫の「青佐山見取絵図」及び「青佐山御台場之図」で確認できます。
台場は、海防のため、文久3(1863)年鴨方藩によって築造されましたが、明治4(1871)年廃藩とともに廃棄されました。尊王攘夷の藩政のもとに、海に面した寄島に築造された市内唯一の砲台場跡を物語る貴重な史跡です。

時代江戸時代
指定年月日平成23年10月25日
所有者・管理者浅口市
所在地浅口市寄島町青佐

阿藤伯海旧居

Atohakumikyukyo

この旧居は、昭和の偉大な漢詩人阿藤伯海(1894~1965年)の生家です。阿藤伯海は、矢掛中学校・第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に入学、詩人の上田敏うえだびんに私淑し高踏かつ唯美的な抒情詩をつくり、大正13(1923)年東大を卒業後京都帝国大学教授の狩野君山かのうくんざんに師事し、漢詩の道に発揚されていきました。
昭和16(1941)年には、母校の第一高等学校の教授になり漢文を担当しました。当時、藤門の書生といわれた8人の中には大学総長、芥川賞作家や日銀総裁等の面々がいました。
昭和19(1944)年、郷里鴨方に帰り、一時期岡山県教育委員に任ぜられた他は一切職に就かず、超俗孤高の生涯を詩に託しました。
吉備真備顕彰碑のために作った絶筆の大作「右相吉備公館址作うしょうきびこうかんしさく」を初めとする『大簡詩草たいかんしそう』480首の詩業は、現代日本の代表的漢詩人と評されるにふさわしいものです。
この旧居には、幕末から明治期に建築された母屋を中心に、離れ、蔵、門などがあり、周辺には伯海が愛した野山等の自然が残っています。往時の庄屋造の建物と、偉大な漢詩人阿藤伯海の故居としての歴史空間を保護し、後世に伝えることには大きな意義があります。

時代江戸時代    明治時代
指定年月日平成23年10月25日
所有者・管理者浅口市
所在地浅口市鴨方町六条院東

細川通董墓所

Hosokawamichitadabosho

この墓の主である細川通董ほそかわみちただは、戦国時代から安土桃山時代にかけて備中国浅口郡を統治していた武将です。細川通董は、天正15(1587)年に豊臣秀吉の九州平定に毛利氏の旗下として従軍の際に、長門赤間関(現下関市)の船中で生涯を閉じました。
細川通董の菩提寺である長川寺ちょうせんじ境内に墓所は位置していますが、晩年に在城したとされる鴨山城跡がすぐ西側にあるなど、死者に対する崇敬の念が窺われます。本所は、4代後裔に当たる長府藩毛利家家老を務めた細川元純ほそかわもとずみが正徳5(1715)年に建立したと伝えられています。
本体石塔と玉垣など墓域の石質が異なることから、細川元純が大きな節目回忌での建立、またその後の末裔の玉垣付設の可能性も皆無ではないが、本体の保存状態も良好であり、市内でも有数の規模と風格を備えています。
細川家の浅口地域における権力や岡山池田藩の支藩体制下に移ってからの墓制を合わせ知る上では、歴史上極めて貴重な史跡です。

時代江戸時代
指定年月日平成28年4月20日
所有者・管理者長川寺
所在地浅口市鴨方町鴨方

町家跡(旧高戸家)

Machiyaato・Kyutakatoke

町家(旧高戸家本宅)建物は、発見された棟礼によると貞享4(1687)年に修理を受けており、県下に残る最も古い江戸時代初期の貴重な町家です。旧高戸家新宅も本宅の建築年代から150年程あとに建てられたとみられ、江戸時代の建築物として貴重なものです。
土蔵は、基礎が長石ながいし二段積みとなっており、これだけの土蔵は近隣には見られません。庭園の築山や庭石は、比較的当時の位置を残しており、動線並びに建物相互の位置関係が確認できます。
高戸家は、江戸時代中期以降名主役をほぼ世襲し、醤油業などを営んだ町家で、江戸時代岡山藩の支藩である鴨方藩の藩主の宿泊所としても使われていました。
旧高戸家住宅(母屋)は、平成10年3月24日に岡山県重要文化財に指定されています。

時代江戸時代
指定年月日史跡:平成23年10月25日 建物:平成10年3月24日
所有者・管理者浅口市・個人
所在地浅口市鴨方町鴨方

黒木の高札場

Kuroginokosatsuba

法度はっと掟書おきてがきなどをしるした高札を掲げる場所を高札場といい、一般に高札は、交通の多い市場や辻などに掲げ、庶民の間に法令を徹底させることを目的としていました。中世末期から起こり江戸時代にもっとも盛んとなり、明治3(1870)年に廃止されました。
この高札場のあるところの字は札場といいます。江戸時代後期の建設と推定されるが、年月日は不詳です。柵の中に柱を立て、横桟よこさんを渡し、雨覆の屋根を設けています。
間口1.37m 奥行0.93mの規模となっています。

時代江戸後期
指定年月日平成17年3月16日
所有者・管理者井原市
所在地井原市美星町黒木

五万原遺跡

Gomanbaraiseki

弥生時代後期(今から約1800年前)の集落跡で、竪穴式住居跡が3軒発見されました。昭和40(1965)年12月、42年8月の2回にわたって発掘調査が実施され、第3号住居跡を43年3月に復元しました。さらに付近一帯にも埋もれた住居跡があることが推定され、当時の生活様式やこの地域の歴史を知るうえで貴重な学術資料です。
この住居跡からは、壷、高杯たかつき、鉢、石鏃せきぞくなどの遺物が数多く出土しました。

時代弥生後期
指定年月日平成17年3月16日
所有者・管理者井原市
所在地井原市美星町大倉

重玄寺跡

Chogenjiato

嘉吉元(1441)年に建立された臨済宗仏通寺派ぶっつうじはの寺院で、開山に近衛家ゆかりの千畝周竹せんみょうしゅうちくを招きました。そのため現在も近衛家ゆかりの宝物が多く残されています。
また、千畝周竹は、画聖雪舟と親交があり、そのため重玄寺は雪舟の終焉の場所と伝えられ、多くの文献にその記載があります。(『東福寺誌とうふくじし』、『吉備物語』、『古画備考』、『備中集成志』、『也足外集やそくげしゅう』等その他多数)
創建後、数度の火災に遭い、天正年間(1573~1592)に焼失した際には豊臣秀吉が方丈を寄進したと言われますが、昭和30(1955)年鐘楼門と土蔵を残して再び全焼し、現存の重玄寺は井原市芳井町吉井篠原しのはらにあります。

時代室町
指定年月日平成17年3月16日
所有者・管理者重玄寺
所在地井原市芳井町天神山

牛神遺跡

Ushigamiiseki

遺跡は、石を積み上げて築かれた低い基壇上にある7基の塚状の石積みと、その南東に離れて単独に存在する1基の塚状の石積みから構成されています。これらの石積みの中央には石室が設けられていて、そのうち4基にかめが残っています。この甕のうち3つは亀山焼で、この甕よりこの遺跡の時期は、平安時代末から鎌倉時代初頭と考えられます。
この遺跡の性格は、甕以外に出土品がなく、墳墓、経塚などが考えられますが今のところ断定はできません。この遺跡の近くには、頂見寺ちょうけんじといわれる山岳寺院があり、牛神遺跡はこの頂見寺の西端にあたり、本堂の位置していた場所からは奥院にあたる場所に位置しており、霊地とみなされていた可能性が高いと考えられます。

時代平安~鎌倉時代
指定年月日平成6年7月11日
所有者・管理者両山寺
所在地井原市野上町堂西字牛神

石塔山古墳

Sekitoyamakofun

大江町の石塔山山頂(標高 105m)にある直径約15mの円墳で、墳丘中央部に、天井石が6枚あり、その下に、長さ3.5m、幅0.85mの竪穴式石室をもっています。石室は、塊状の割石が使用されており、側壁は上にいくにしたがってせり出すように築かれています。
昭和34(1959)年の倉敷考古館の調査で、この石室より、赤色顔料が塗られた男性の人骨、ガラス玉、鉄剣が出土し、古墳時代中期(今から約1500年前)に造られたことが確認されました。
この石塔山古墳以外に、北に伸びる尾根上には、前方後円墳を含めた古墳群が存在します。石塔山古墳を含めたこれらの古墳群は、古墳時代の前半に井原市南西部を治めた豪族やその関係者の墓であると思われます。

時代古墳中期
指定年月日昭和40年8月25日
所有者・管理者井原市
所在地井原市大江町木田字木田

高越城跡

Takakoshijoseki

この城は、鎌倉時代末蒙古襲来の際、宇都宮貞綱うつのみやさだつなによって築城されたと伝えられて、南北朝の合戦の場にも使用されました。戦国時代には、備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原郷えばらのごうを治め、この高越城を居城にしていました。
伊勢新九郎盛時いせしんくろうもりとき(後の北条早雲)は、この備中伊勢氏出身といわれ、青年時代にこの城で過ごしたと伝えられています。
野上町の丘陵から南方向へ伸びる丘陵で、標高約170m、山陽道、小田川が眼下に広がり、笠岡、矢掛、井原市街地が見渡せます。本丸を含めて3段の郭で構成され、堀切も残っており、現在も当時の状況をよくとどめています。

時代鎌倉
指定年月日昭和50年9月16日
所有者・管理者井原市
所在地井原市東江原町高越字今屋

金敷寺裏山竪穴式墳墓

Kanashikijiurayamatateanashikifunbo

この墳丘墓は、経ヶ丸山の丘陵東端、標高約180mの東へ下る尾根上にある弥生時代末期から古墳時代初期にかけて造られた方墳です。墳丘内には葺石ふきいしが方形に葺かれていました。また、墳丘のほぼ中央に墓壙ぼこうが掘られ、内に竪穴石槨たてあなせっかくをもっています。
石槨は、長さ約2.6m、幅約0.7m、深さ約0.6mで、粗雑な割石を積み、偏平な6枚の天井石で覆われています。床面はゆるいU字形に円礫えんれき角礫かくれきを配した独特な構造をしていて、おそらく小型の割竹形木棺わりたけがたもっかんに類したものが据えられていたと思われます。
床には、熟年男性人骨が1体、墳丘周辺より特殊器台とくしゅきだい特殊壷とくしゅつぼの破片が出土しています。弥生時代から古墳時代にかけての移行期の墳墓として貴重な遺跡です。

時代弥生末期~古墳初期
指定年月日昭和50年9月16日
所有者・管理者金敷寺
所在地井原市笹賀町

興譲館

Kojokan

興譲館は、庶民の子弟の教育を目的として、当地の領主一橋家の代官友山勝治ともやまかつじが西江原領内に、嘉永6(1853)年、漢学者阪谷朗廬さかたにろうろを招いて創立した郷校です。
校名の由来は、四書の『大学』の、「一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興る」からとられました。創設当時の姿をとどめているのは、講堂と校門、そして阪谷朗廬お手植えと伝えられる紅梅です。
講堂(書斎付)は、嘉永6(1853)年に建てられました。元は藁葺きであったものを、安政6(1859)年に現在のような瓦葺きとなりました。建坪25.5坪(書斎は4.5坪)本瓦葺き平屋建で、平成7・8年に保存修理を行い、現在は資料を展示し公開しています。校門は桟瓦葺きさんがわらぶきで、初代館長と親交のあった渋沢栄一しぶさわえいいち揮毫きごうした扁額がかかっています。また、紅梅は、樹齢約150年で、根元付近より東西に分かれ、毎年春には美しい花を咲かせています。
阪谷朗廬は、井原市美星町に生まれた漢学者で、江戸で学び、井原市芳井町で桜渓塾を開いていました。その後、興譲館に招かれ、領内の子弟の教育を行いました。朗廬の名声は各地に広がり、遠くは九州地方からの入門者もありました。その後、広島藩、明治政府に招かれ要職を務めるとともに、森有礼、福沢諭吉の主催する明六社に漢学者として唯一参加しました。

時代嘉永6年(1853)
指定年月日昭和34年3月27日
所有者・管理者学校法人興譲館
所在地井原市西江原町

猿掛城跡

Sarugakejoseki

標高239mの本丸跡が南端にあり、北に向かって二の丸、三の丸、井戸、大手門、四の丸、馬場、五の丸、六の丸、大夫丸、寺丸と下って平林口に至ります。
築城年代は庄家長が元久2(1205)年、源平合戦の軍功により地頭として赴任し、その後間もなく、山上に土塁を築いたのが始まりと考えられています。 庄氏が松山城(高梁)に本城を移した後、毛利元就の四男・毛利元清が領主として猿掛城に入城します。
天正10(1582)年の備中高松城水攻の際には、この猿掛城が毛利輝元の本陣として名を歴史に残しました。翌天正11年には毛利元清は茶臼山城(東三成)に移ったため、約400年間続いたこの山城は実質上廃城となりました。

時代鎌倉時代~安土桃山時代
指定年月日平成8年4月1日
所有者・管理者
所在地矢掛町横谷

小迫大塚古墳

Kozakootsukakofun

両袖型の横穴式石室をもつ、一辺が23~27mの方墳です。現存の石室は全長10.7m、玄室の長さ6.5m、幅2.4m、高さ2.3m、羨道の長さ4.2m、幅1.8mで、築造年代は古墳後期から末期と考えられています。
石室は南に開口し、花崗岩類の石材を用いた全長10.7mで、天井の四枚の巨石、奥壁の岩は見事な一枚石です。矢掛町内の古墳のうち最大のものです。

時代古墳時代後期~末期
指定年月日昭和48年4月11日
所有者・管理者南山田財産区
所在地矢掛町南山田字小迫

光助霊神宮

Kojoreijingu

元禄12(1699)年に、東三成の丘陵地(下道氏墓)より、吉備真備の祖母を火葬にして埋葬した銅壺(銅製の骨臓器)ならびに遺骨が発見されました。それを受けて、享保12(1727)年、時の領主庭瀬藩主板倉昌信は、同家の祈願所の中蔵坊の境内に社殿を設け、この銅壺を安置しました。
その後、享保13(1728)年には京都の吉田家から神号が与えられて、この社殿を「光助霊神宮こうじょれいじんぐう」と称するようになったものです。
なお、享保15(1730)年・中蔵坊は、下道圀勝の名前にちなみ、圀勝寺と改称されました。現在の光助霊神宮は平成18年に建て替えられたものです。

時代江戸時代(享保12年)
指定年月日昭和63年9月19日
所有者・管理者圀勝寺
所在地矢掛町東三成

吉備公ゆかりの地

Kibikoyukarinochi

小田川流域の矢掛町から倉敷市真備町にわたる一帯は、古来より吉備真備ゆかりの地として知られています。矢掛町では、真備公の遺徳を偲んで、昭和63年(1988)、吉備公館址に隣接する丘に吉備真備公園を新たに整備しました。
公園周辺には吉備真備の産湯の井戸などが言い伝えられており、また、真備が唐の都からもちかえった文物の一つである囲碁にちなみ、この地を「囲碁発祥の地」としても顕彰しています。
この公園は地元町民の努力で美しく保たれ、平成19年(2007)には日本の歴史公園100選にも選ばれ、町内外の多くの方が訪れています。

時代奈良時代
指定年月日昭和48年4月11日
所有者・管理者吉備保光会
所在地矢掛町東三成
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白江弥生時代後期集団墓地跡

Shiroeyayoijidaikokishudanbochiato

芋岡山いもおかやまの尾根の平坦部を中心に南北約25m、東西約10mの範囲に形成された弥生時代後期から古墳時代の埋葬遺跡です。30基の土壙墓どこうぼが発見され、うち2基からは朱が検出されました。またこの他、古墳時代の箱式石棺が2基確認されています。また丘陵の南側には幅約2mの墓域の境界と思われる溝を掘り、土器を供献していることが分かりました。
生活区域と埋葬地域を明確に分け、死者を丁重に葬る葬送観念が当時の人々の中に定着していたと考えられています。出土土器には立坂型の特殊器台の破片をはじめ、特殊壺・壺・甕・高坏などがあり、出土品は倉敷考古館に所蔵・展示されています。

時代弥生時代後期
指定年月日昭和41年4月12日
所有者・管理者中財産区他
所在地矢掛町中

橋本荒神塚

Hashimotokojinduka

両袖型の横穴式石室で、高さ5m、径20mの円墳です。羨道の長さ1.2m、玄室の長さ5.85m、幅2m、石棚の幅1.4mで、築造年代は古墳後期(6~7世紀)の古墳です。
玄室の奥壁部・高さ1mのところに、奥行1.5mの石棚が付設してありますが、この石棚は石室の補強や棺または副葬品をおいたとの説があるものです。石棚のある古墳は和歌山県と九州地方に多く分布しており、岡山県下では他にも例が知られています。

時代古墳時代後期(6~7世紀)
指定年月日昭和41年4月12日
所有者・管理者橋本組
所在地矢掛町里山田

岡田廃寺(金剛寺跡)

Okadahaiji(Kongojiato)

真備町岡田字山ノ谷金剛寺まびちょうおかだあざやまのたにこんごうじにある白鳳期に始まる古代寺院跡です。南に向かって降る低い舌状台地上で、荒神社こうじんじゃ小祀しょうしがあり、ムクの木の巨木がある付近を中心に立地しています。
本来の位置を保つとみられる礎石4個が並び、いずれにも繰り出しの円柱座が認められます。付近はやや南北に細長い方形の高まりになっていて、寺院建物の基壇の痕跡を残しているかに見えますが、伽藍配置全体のことなどはあきらかになっていません。
古代寺院の年代は、寺跡出土の軒先瓦の文様から推定できますが、軒丸瓦の文様は、蓮華文の外縁に鋸歯文帯きょしもんたい珠文帯しゅもんたいをめぐらしたものが、2~3種あり、その文様は、この地方に独特なものだとして、「吉備式」あるいは「備中式」の名でよばれています。蓮華文の花弁の数が8弁のものは、白鳳時代末、16弁のものは、奈良時代平城宮遷都後のころといわれています。軒平瓦の文様には、小断片ながら重孤文瓦じゅうこもんがわらがあり、白鳳時代の年代が考えられ、均整きんせい唐草からくさ文瓦もんがわらは、国分寺創建の8世紀中ごろからの年代が推定できます。

時代飛鳥
指定年月日平成17年12月5日
所有者・管理者東薗神社外
所在地倉敷市真備町岡田

亀山焼窯址

Kameyamayakikamaato

亀山焼は須恵器によく似た土器です。その色は普通灰色で、甕や壷の表面に格子目の文様がついているのが特徴です。玉島八島から玉島陶にかけての丘陵一帯を中心にして鎌倉時代のはじめ頃から盛んに焼かれ、この地域には窯の跡が点在しています。
日常生活に利用された土器で、海を望む玉島の海運に恵まれた立地から瀬戸内一帯を中心に広い範囲に流通していました。有名な広島県の草戸千軒遺跡くさとせんげんいせきからも大量に発見されています。しかし、この焼き物はやがて備前焼に圧倒されるようになり、室町時代には窯の火も絶えてしまいました。指定されている窯跡は神前神社かんざきじんじゃの境内にあります。すでに窯そのものは地下に埋っていますが、この窯で焼かれた製品の破片がたくさん散らばっているのを今でも見ることができます。

時代鎌倉~室町
指定年月日昭和45年3月20日
所有者・管理者神前神社
所在地倉敷市玉島八島

板敷水門

Itazikisuimon

岡山藩によって弘化2(1845)年から嘉永5年(1852)年にわたり干拓された福田新田は 625万㎡にも及び、 それを囲む堤防には余水・悪水を排出するための水門が3カ所に築かれました。そのうちの一つが板敷水門です。
幅10m、深さ6mに積み上げられた水門の石垣は、花崗岩を用いた高度な切り込み剥ぎの技法が使われており、築造年を表わす「嘉永二年 夏六月造ろくがつづくり」(1849)の銘が刻まれています。また、水門奉行・手代など水門築造に係わった人々の名前が刻まれた石材片なども指定に含まれています。
現在の倉敷市の大半は江戸時代以降の新田開発によるもので、その名残りといえる板敷水門はこうした倉敷市の歴史を伝える貴重な遺産です。

時代江戸
指定年月日平成7年12月1日
所有者・管理者倉敷市
所在地倉敷市南畝4丁目

二万大塚古墳

Nimaotsukakofun

二万大塚古墳は、真備町を東西に貫流する小田川に南から流れ込む小支流二万谷川が形成した谷の東岸に位置しています。
平成13(2001)年から平成16年(2004)年にかけて、岡山大学考古学研究室による実態解明のための発掘調査が行われました。
調査の結果、全長38mの前方後円墳で、北側の括れ部には造り出しを持つことも確認されました。ここからは人物埴輪、家形埴輪や多数の円筒埴輪さらに須恵器が整然と並べられ祭壇状施設となっていたことが明らかになり、この時期の葬送祭祀の様相を考える上で貴重な資料となりました。
埋葬主体としては後円部に南南西に開口する横穴式石室を持つことが確認され、石室は両袖式で全長9.1m、玄室の長さは4.7m、幅は奥壁で2.5mを測り、比較的小降りの石材を5~7段に積んでいました。
石室から須恵器、土師器、鉄器、馬具のほか装身具として耳環、玉類が出土しています。須恵器の時期は6世紀中頃から6世紀後半までの幅があり、数度の追葬が行われていたと考えられています。
以上のように岡山大学による発掘調査によって、二万大塚古墳は高梁川西岸で最終段階の唯一前方後円墳というこれまでの評価だけではなく、横穴式石室を持つ前方後円墳では吉備で最も古い段階の古墳であることが判明しました。これによって、前方後円墳で横穴式石室を持っている総社市のこうもり塚古墳などとあわせて整理・研究が進めば、当時の首長間の関係がよりいっそう明確になってくることが期待されます。

時代古墳
指定年月日平成17年12月5日
所有者・管理者迩摩神社
所在地倉敷市真備町下二万

箭田大塚古墳

Yataotsukakofun

県下三大巨石古墳のひとつ。内部にある石室は、巨大ないくつもの石を精密に組み合わせた横穴式の大空間で、入口の羨道とその奥の玄室に分かれています。
明治34(1901)年の調査で、須恵器や土師器などとともに、権力の強大さを示す刀剣・馬具・金環・勾玉などが発見されました。
石室全長は19.1m、うち玄室の長さ8.4m、幅3m、高さ3.8m。従来は前方後円墳とか帆立貝式古墳などと言われてきましたが、昭和58年の確認調査で周溝が検出され、直径54m、高さ7mの円墳であることが判明しています。6世紀後半の築造と考えられています。

時代古墳
指定年月日昭和4年12月17日(追加指定:平成4年12月18日)
所有者・管理者倉敷市
所在地倉敷市真備町箭田

黒宮大塚

Kuromiyaotsuka

真備町の中心部を西から東に流れる小田川に向かって突出する標高43mの丘陵上に、黒宮大塚は所在しています。昭和52(1977)年に、倉敷考古館によって発掘調査が行われました。
墳頂部のやや北西よりで竪穴式石室1基が確認され、床面に敷かれた円礫上には朱が薄く認められ、中軸部が窪んでいることから、割竹形木棺わりたけがたもっかんが置かれ、石室には蓋石はなく、本来は木蓋が用いられていたと推定されています。副葬品としては勾玉1点、管玉1点が検出されたのみですが、石室の上方からは墓へ供えられた特殊壷形土器とくしゅつぼがたどき器台きだい台付壷だいつきつぼ高坏たかつきなどの土器類80個体以上が出土しました。
出土した土器類から、弥生時代後半の築造と考えられます。本遺跡は、古墳成立にいたる過程を研究する上で欠くことのできない遺跡であり、その時期に吉備地方で成立した首長墓への特殊な土器の供献状況を示す墳墓として大いに注目されています。

時代弥生
指定年月日平成17年12月5日
所有者・管理者熊野神社
所在地倉敷市真備町尾崎

一ノ口水門

Ichinokuchisuimon

西高梁川からの灌漑用水路を拡張・整備し、高瀬舟の運行を可能にしたのが高瀬通したかせどおしです。完成した年代のことは、正確な記録がありませんが、寛文4 (1664)年頃であろうとされます。一の口水門とその下流約350mの二の水門、通称船溜水門ふなだまりすいもんとの間で水位の調整を行い、高梁川流路との高瀬舟の出入りを容易にしたものです。
一の口水門から、水江又串みずえまたくし元組もとぐみ長崎鼻ながさきばな長尾ながお爪崎つまさき南端を経て七島ななしま東端、さらに羽黒山はぐろさん麓へと連なるもので、これによって短い時間と距離で松山藩の外港・玉島港への舟運が開かれました。水門の構造は一の口と二の水門の一部で創設時の状態をとどめています。
以上のように、一の口水門はその遺構が良好に残されており、17世紀の後半から20世紀の初めまでの長期間にわたって続いた高瀬舟による物資輸送のことを今に伝える重要な遺跡です。

時代江戸
指定年月日平成17年12月5日
所有者・管理者倉敷市
所在地倉敷市船穂町水江

福田貝塚

Fukudakaiduka

縄文時代には、現在の倉敷市街地のほとんどは海でした。当時の人々は海岸に程近い山裾に住み、狩猟、漁労、採集により日々の糧を得て生活していました。
住まいの近くには貝殻や動物の骨といった食べかすや、土器・石器などが捨てられた場所が残されます。私たちはこうした場所を貝塚と呼んでいます。
倉敷市内には、縄文時代の貝塚が多く知られています。現在、福田町福田の古城池堤防西側に位置する福田貝塚もそのひとつです。
これは縄文時代後期を中心とする貝塚であったことがわかっています。第二次大戦後間もなく行われた調査では、特異な文様を持つ土器や石器、土偶、埋葬された人骨など、当時の生活の様子をしのばせる豊富な資料が発掘されています。

時代縄文
指定年月日昭和40年3月25日
所有者・管理者倉敷市
所在地倉敷市福田町福田

新熊野山

Shinkumanosan

五流修験ごりゅうしゅげん」は、役小角えんのおづのが伊豆大島に流されたときにその難を逃れ、海路児島にたどり着いた高弟たちが開祖とされる修験道の一派です。古くから熊野権現を中心として五流修験と呼ばれて繁栄しました。
伝によると、奈良時代に紀州熊野権現をこの地に勧請したときに、木見の諸興寺しょこうじを新宮、熊野権現を本宮、由加山を那智宮なちぐうとして、熊野三山くまのさんざんになぞらえる見立てにより、新熊野山と称するようになったといわれています。蟻峰山ぎほうざんの深い緑に抱かれた一帯は、こうした歴史を伝える貴重な区域として史跡指定されています。
域内には、秀麗な三重塔がそびえ、五流尊瀧院宝塔ごりゅうそんりゅういんほうとうが木立の中にひっそりと立ち、熊野神社の社殿が檜皮の屋根を連ねています。
こうした、国・県指定の文化財のほかにも、毘沙門堂・報恩院跡ほうおういんあと諸興寺跡しょこうじあとなどの遺跡や遺構が各所に点在しています。

時代古代~中世(奈良時代以降)
指定年月日昭和48年5月15日
所有者・管理者熊野神社他
所在地倉敷市林

羽島貝塚

Hashimakaiduka

倉敷市街地の、南東の山裾に位置する縄文時代の貝塚です。
ここに人々が暮らしはじめ、貝塚の形成がはじまったのは縄文時代の前期です。その後も人々は縄文時代中期・後期にかけてこの地に住み、貝塚も引き続き成長していきました。当時瀬戸内の海は、内陸深くまで入りこんでいました。
遺跡は入江をのぞむ砂浜に立地していたと考えられています。大正時代以降、数回の調査が行われ、土器片、石で作った矢じりなどがみつかっています。
現在,遺跡は児童公園の地下に埋っています。今でも地面を注意深く観察すると、カキ・ハマグリなどの貝殻をみつけることができます。

時代縄文
指定年月日昭和40年3月25日
所有者・管理者倉敷市
所在地倉敷市羽島

梅雲寺古墳

Baiunjikofun

連島町連島字茂浦つらじまちょうつらじまあざもうらの山麓、梅雲寺境内近くの斜面に存在する古墳時代後期の古墳です。南向きに開口した横穴式石室が遺されています。
古墳が築造された時代には、山麓まで海が迫っていました。海を見下ろす位置に築造されたのでしょう。
やがて海が埋め立てられ村が大きくなり、寺が建てられるにしたがって、古墳は削られ、その形はゆがめられてしまいました。石室の羨道も古くに失われています。
棺を納めている玄室の規模は長さ6.23m、幅1.35mで、高さは現状で約1.7mです。東側の石材は寺の地圧により西側へ傾いています。崩壊しないように、現在石室内に山土を充填して石材を支えています。

時代古墳
指定年月日昭和47年9月29日
所有者・管理者梅雲寺
所在地倉敷市連島町連島

恵池及び恵池碑

Megumiike oyobi Megumiikehi

玉島黒崎の沙美海岸の近くに三角形の人工池があります。天明6(1786)年鴨方の朱子学者西山拙斎にしやませっさいがここを訪れた折、沙美の人々の純朴さにうたれ、『沙美の浦歌』という詩をつくりました。
この詩を読み感動した倉敷代官菅谷長昌すげのやながまさは、寛政元(1789)年に現地を訪れ、拙斎の歌ったとおりの人情風情に触れました。菅谷長昌すげのやながまさが先の詩を添えてこの見聞を幕府に報告したところ、幕府から白銀20枚が沙美の人々に下賜されました。
沙美の人々はこの栄誉を後世に伝えようと、皆で農業用水を蓄えるための溜池を造り、恵池と名付けました。そして、池の北端には拙斎がこの経緯を記した文をつくり、曽道怡そどういが筆を取った碑が建てられたのです。

時代江戸
指定年月日昭和45年3月20日
所有者・管理者倉敷市
所在地倉敷市玉島黒崎

王墓山古墳

Obosankofun

王墓山丘陵に存在するこの古墳は、明治末年に破壊されて、その形が著しく変形されており、その大きさや形については明らかではありません。石室は横穴式だったと思われますが、これも石材が抜き取られています。
井原市で産出する浪形石なみがたいしで造られた家形石棺が墳丘の裾に残されています。前述の破壊が行われたときに掘り出されたものです。
浪形石の家形石棺をもつ他の古墳は吉備でも有数の規模を誇る有力豪族のものばかりです。王墓山古墳の主も同様の有力者だったと思われます。またこれを裏書きするのは、出土した四仏四獣鏡しぶつしじゅうきょうや金銅製の馬具をはじめ、柄頭つかがしら、甲冑、鉄製武具などの豊富な副葬品です。これらは現在、東京国立博物館に収蔵されています。

時代古墳
指定年月日昭和34年3月27日
所有者・管理者倉敷市
所在地倉敷市庄新町

楯築遺跡

Tatetsukiiseki

倉敷市域北東の岡山市と境を接するあたりに広がる王墓山丘陵の北端、楯築神社の境内を中心とする弥生時代後期の墳丘墓です。
自然地形を利用し盛り土を行って整えられた墳丘の規模は、現在知られている弥生時代の墳丘墓としては最大級です。円丘部は、径約50m, 高さ5m。北東側と南西側に突出部を持っていましたが、工事によって破壊されてしまいました。墳丘頂部には5個の巨石が立っており、墳丘斜面には円礫帯がめぐっています。
岡山大学考古学研究室による発掘調査の結果、朱の敷き詰められた棺とそれを納めた木製の槨の痕跡が発見され、鉄剣と大量のガラス小玉、土製の勾玉などもみつかりました。弥生時代から古墳時代へかけての社会の変化を研究する上で、触れずにすますことのできない全国的にも重要な遺跡のひとつです。

時代弥生
指定年月日昭和56年12月9日
所有者・管理者鯉喰神社
所在地倉敷市矢部

下津井城跡

Shimotsuijoato

備讃瀬戸の海を臨む下津井は、古来、瀬戸内の軍事、海運の要衝でした。この地の政治的重要性から、地元の人達が城山と呼ぶ標高89mの丘陵には,16世紀に既に宇喜多氏の城砦が築かれていたとされています。
慶長8(1603)年岡山藩家老池田長政いけだながまさが下津井城主となり近世城郭の形態を整備しました。本丸を中心として両側に二の丸・三の丸を備え、さらにその先に西出丸・東出丸を配するという構造になっています。
寛永16(1639)年、一国一城の幕令により廃城となってからは、かつての姿を伝えるのは荒廃した石垣だけになっていました。そのためこの地を訪れる人も少なかったのですが、近年、史跡内の散策路が整備されたことにより、地域の歴史に触れながら美しい瀬戸内の風景も楽しめる新しい学習の場となっています。

時代安土桃山~江戸
指定年月日昭和43年7月23日
所有者・管理者倉敷市
所在地倉敷市下津井

下津井共同井戸群

Shimotsuikyodoidogun

下津井は、児島半島南端の古い港町です。江戸時代を通じて商港・漁港として、また金毘羅往来の発着港として栄えました。その町並みにはいくつもの井戸が点在し、なかには複数の家で使用する共同井戸も見られます。杓井戸しゃくいど寺井戸てらいど鶴井戸つるいど亀井戸かめいどがそれです。
これらの共同井戸では井戸ごとに使う家がきまっており、その管理も使用する家々が厳しく行っていました。これらの井戸は、江戸時代以降、下津井に暮らす人々の飲料水の供給源でした。また、港へ寄港する船に供給されたり酒造りにも使用されたりしました。
人々の生活を長い間にわたって支えてきたこの共同井戸群は、かつての下津井の繁栄を今に伝える記念碑ということができるでしょう。

時代江戸時代以降
指定年月日昭和45年3月20日
所有者・管理者倉敷市
所在地倉敷市児島下津井1丁目

野崎家旧宅

Nozakikekyutaku

江戸時代後半、児島半島の南側を中心に広大な塩田開発を行い、「塩田王」となった野崎武左衛門のざきぶざえもん(1789~1864)の居宅で、低い丘陵を背景に長屋門、御成門の門建築が配され、その奥に南北に連なる広大な敷地が画されています。
中央に表書院、主屋を置き、その北側には内蔵、大蔵、書類蔵、道具蔵、岡蔵、夜具蔵が建ち並んでいます。
桁行約26mの堂々とした構えの長屋門を入ると、踏石を伝って主屋・表書院へ導かれます。表書院は南東面に縁座敷が巡らされ、淡雅なゆったりとした内部空間を形成しており、その前面には3棟の茶室のほか、奇石・巨石を組み、松やツツジ、苔を巧みに配した美しい枯山水の庭園が広がっています。
武左衛門の精神が反映された建築群は旧状がよく保存されており、庭園や塩業資料の展示などを含めて広く一般に公開されています。

時代江戸
指定年月日史跡:昭和52年4月8日 国指定(建造物):平成18年12月19日
所有者・管理者(財)竜王会館
所在地倉敷市児島味野

廃浅原寺層塔跡

Haiasabaraderasotoato

この層塔の跡は、安養寺本堂の西、一段高くなったところに存在します。
現在は建物の基礎になった石(礎石)が15個、中心の柱を支える心礎が1つ残されています。塔跡は3間×3間で礎石は本来16個あったはずですが、北西の角が1個失われています。
もともとこの地には浅原寺という大寺があり、平安時代から鎌倉時代にかけて栄えていました。この塔跡はその頃のものか、あるいは室町時代にはいって再建された塔のものと思われます。

時代平安~室町
指定年月日昭和40年3月25日
所有者・管理者安養寺
所在地倉敷市浅原

安養寺裏山経塚群

Anyojiurayamakyodukagun

安養寺は、倉敷市の北部に位置する真言宗の古刹です。この経塚群は、寺の背後の山腹に存在し、第1から第3経塚まであります。
経塚とは平安時代の末法思想の影響により、土中に経文の刻まれた瓦を埋めて後世に遺すという善行で極楽往生しようという願いから設置されたものです。
第1経塚からは国の重要文化財に指定されている経瓦きょうがわら土製塔婆型法華経題箋どせいとうばがたほっけきょうだいせん土製宝塔どせいほうとうが出土しています。
第2経塚からは瓦製経筒・誕生仏などが、また第3経塚からは塔婆形経瓦などが見つかっています。

時代平安
指定年月日昭和35年8月23日
所有者・管理者安養寺
所在地倉敷市浅原

備前・備中国境標石

Bizenbichukokkyohyoseki

早島町の歴史は、町の南部にある児島湾干拓の歴史でもあります。戦国時代後期の宇喜多堤の築堤にはじまり、昭和31(1956)年の児島湖締切り堤防の完成まで約400年に及ぶ干拓事業が行われ、国境論争や開墾反対運動など、さまざまなドラマを生みました。
この中で、興除新田の干拓に端を発した備前備中の国境論争は約100年にわたり争われ、文化14(1817)年にこの論争に裁許下され早島下前潟に国境標石が建てられました。これは、6丁(約700メートル)おきに建てられたという10本のうちの1本で、早島の干拓の歴史を物語る貴重な資料です。

時代江戸時代
指定年月日昭和44年6月17日
所有者・管理者早島町
所在地早島町前潟

早島戸川家陣屋跡

Hayashimatogawakejinyaato

備中都宇郡早島周辺は、岡山城を本拠にした宇喜多秀家の領地でしたが、秀家は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍に属して滅亡しました。代わってこの領地を戸川逵安みちやすらが領有しました。
逵安は宇喜多家の重臣でしたが、内紛により同家を退去して東軍に属し武功を立て、庭瀬藩主となり都宇郡・賀陽郡の一部を領有しました。寛永5(1628)年、父・逵安の遺領を継いだ正安は、早島地域3400石を弟の安尤やすもとに分知し、早島知行所が成立しました。安尤は元禄6(1693)年に陣屋を置くことを決定し、宝永6(1709)年、3代安貞のときに完成しました。
この陣屋は明治維新後に取り壊されましたが、早島小学校のすぐ西隣りに堀の一部とそれにかかる石橋が残存しています。

時代江戸時代
指定年月日昭和40年8月31日
所有者・管理者早島町
所在地早島町早島

宮山墳墓群 宮山展望古墳

Miyayamafunbogun Miyayamatenbokofun

標高約80mの三輪山頂部に立地する古墳時代前期の前方後円墳です。後円部に比べ前方部が低くて長いことから、古い様相をもつものといえます。後円部の頂部には大きな穴が開いており、埋葬施設はすでに盗堀されているものと思われます。墳丘の斜面を覆った葺石ふきいしは前方部側によく残っており、埴輪はにわの破片も採集されています。この古墳の南側には、屋根上に円墳を挟んで全長70mになる前方後円墳の三笠山古墳があります。宮山天望古墳と同様に、古い様相をもった古墳時代前期の古墳です。これらの古墳は、宮山墳丘墓と同一丘陵上にありますが、弥生時代の墳丘墓とは隔された場所に造られています。なお、宮山には、遊歩道が整備されており、弥生~古墳時代の墳墓を見ながら、自然散策も楽しめます。

時代古墳時代
指定年月日昭和39年5月6日(追加指定:昭和39年12月2日)
所有者・管理者百射山神社
所在地総社市三輪

栢寺廃寺跡

Kayaderahaijiato

飛鳥時代後半(白鳳時代)に建立された寺院です。昭和52(1977)年翌年にかけて発掘調査で、瓦積みの塔基壇が見つかりました。塔の心礎を支えた巨大な礎石も発見され、もとあった場所からは移動されていますが、整備された基壇の傍らに見ることができます。塔以外の建物は発見されていないため、寺域内の建物配置は不明です。
なお、出土した軒先を飾っていた丸瓦の中には、文様などから備後(広島県東部)の寺町廃寺と同じ型で作成されたものがあることもわかっており、両寺院の密接な関係がうかがえます。

時代飛鳥時代後半(白鳳時代)
指定年月日昭和62年4月3日
所有者・管理者総社市
所在地総社市南溝手

美袋本陣跡

Minagihonjinato

美袋は江戸時代、松山往来の宿場町として栄えました。松山往来とは、山陽道の板倉宿(現:岡山市北区吉備津字板倉)から分かれ、松山城下(現:高梁市内山下)に達する道です。この宿場で、諸大名などが宿泊した本陣は、大庄屋の田辺家でした。
明治元(1868)年には、官軍方の岡山藩が幕府方の松山藩を鎮定する際に、この美袋本陣で松山城の明け渡しについての会談がもたれました。明治維新後は、地方制度改革によって戸長こちょうと呼ばれる役人が執務した戸長役場となり、その後村の役場として使用されました。戦後、建物などは取り壊され、現在は岡山西農業協同組合昭和支店の事務所と店舗などが建っています。
今は、傍らにある標柱が当時を思い起こされるのみです。

時代江戸時代
指定年月日昭和41年4月14日
所有者・管理者岡山西農業協同組合
所在地総社市美袋

幸山城跡

Kozanjoshi

幸山城は、福山の西北、標高164mの小山の頂上に立地します。三方が絶壁で、守りやすく攻めにくい天然の要塞ようさいとなっており、眼下に山陽道が一望できる良好な立地条件の下に築かれた山城です。
鎌倉時代の後半に、庄左衛門しょうざえもん四郎しろう資房すけふさが築いたとされています。室町時代の中ごろには、庄氏から備中国の守護職にあった細川氏の配下の石川氏に城主が代わり、以後約150年にわたって居城していたとみられます。16世紀の後半には、備中松山城主三村みむら元親もとちかと毛利氏の間に備中兵乱びっちゅうひょうらんと呼ばれる戦が起こり、幸山城はその舞台となった城の一つです。幸山城主石川いしかわ久式ひさのりは毛利軍に加わっていましたが、義理の兄弟に当たる三村元親と毛利氏が戦闘状態になると、三村氏を援護しました。しかし、松山城は落城し元親は切腹、久式も追い詰められ自害しました。その後、幸山城は、毛利氏と共に三村氏を攻めた小早川隆景に与えられましたが、江戸時代の初めには廃城となったようです。
幸山城には、堀で仕切られたくるわと呼ばれる2つの区画壇があり、「西の丸」、「東の丸」と呼ばれています。

時代鎌倉時代後半~安土桃山時代
指定年月日昭和50年2月3日
所有者・管理者共有
所在地総社市西郡

一里塚跡

Ichiridukaato

江戸時代には、街道の整備に伴い距離を示す目印として、一里(約4Km)ごとに道の両側に塚を築き、エノキやマツなどを植えました。この一里塚も、山陽道の整備に伴って築かれたもので、かつては大松が一里塚の象徴となっていましたが、落雷を受けて枯れたため、昭和35(1960)年伐採されており、現在では標柱が当時をしのばせるのみです。

時代江戸時代
指定年月日昭和46年3月20日
所有者・管理者共有
所在地総社市西郡

総社跡

Sojaato

総社跡は、市名の由来となった備中国の「総社」のことです。律令制下、各国に中央から派遣された国司は行財政や司法・軍事などをつかさどるほか、国内の神社を管理し祀ることも重要な職務の一つでした。
国司は、それぞれの神社を一宮から順に巡拝していましたが、平安時代後期ごろになると、国府の近くにすべての神社をまとめまつるようになり、これを総社としました。
総社という文字が最初にみられるのは、「時範記」という文献で、康和元(1099)年2月15日条の因幡国いなばのくにの総社です。このころには、総社制の実体が伴っていたものと考えられます。総社では、国司の着任儀式が行なわれており、国の行事上、重要な施設であったことがわかります。
備中国の総社に関しては、平安・鎌倉時代の資料が残されていないため詳細は不明ですが、他の国の総社と同様に12世紀には存在していたものと考えられます。

時代平安時代
指定年月日平成6年10月24日
所有者・管理者総社宮
所在地総社市総社

義民埋葬地

Giminmaisochi

新本は、岡田藩の領地でしたが、村の人々が共同で使用していた入会山いりあいやまの木々の伐採や下草・採草を禁じたため、村人は薪や田畑の草肥、牛馬の飼料などを得ることができなくなりました。そのうえ享保元(1716)年には、藩有林の木を伐採・運搬する重労働を命じられ、その労働は度重なり農耕にもさしつかえるようになりました。困り果てた村人は、藩との対決を覚悟し、藩へ嘆願書を提出しましたが聞き入れられませんでした。
そのため、享保3(1718)年に村人4人を江戸に派遣して、藩主伊東長救に直訴した結果、願いが聞き届けられました。しかしながら、当時直訴は禁じられていたため、4人は新本の飯田屋川原で打ち首になりました。遺体は下げ渡され、4人のうち3人は西明寺さいみょうじに、1人は稲井田いないだに手厚く葬られました。
毎年夏には、この4人の義民をしのび、義民祭が行われています。

時代江戸時代
指定年月日昭和40年7月2日
所有者・管理者西明寺ほか
所在地総社市新本

古川古松軒の墓

Furukawakoshokennohaka

江戸中期の地理学者の古川古松軒は、享保11(1726)年、橋本家の別家にあたる橋本はしもと護次もりつぐの子として新本で生まれ、名を辰、または正辰まさたつ、通称平次兵衛へいじべえといいました。古松軒は、自学自習で地理・歴史を学び、測量術に長じていました。諸国を周遊し、山陽・九州の紀行文『西遊雑記さいゆうざっき』、東北・蝦夷の紀行文『東遊雑記とうゆうざっき』をまとめ、地理・風俗・物産等や、一般民衆の生活状態を伝えました。
また、寛政の改革を行なった老中松平定信の信任を得て、幕府の命令により『武蔵五郡の図』、『四神地名録ししんちめいろく』を作成しました。晩年は岡田藩に帰り、岡田藩主から苗字帯刀を許されました。文化4(1807)年に亡くなり、宅源寺脇の橋本家の墓地に葬られ、「古松軒夫婦之墓」と刻まれた自然石の大きな墓石がたてられました。

時代江戸時代
指定年月日昭和40年1月20日
所有者・管理者宅源寺
所在地総社市新本

一丁ぐろ古墳

Icchogurokofun

古墳時代前期前半(4世紀前半頃)に築かれた前方後方墳です。高梁川を眼下に望む、眺望のよい丘陵尾根の頂上に築かれており、周囲にも多くの古墳が見つかっています。
平成23年度から実施された確認調査によって、全長約70mであることがわかりました。大型の前方後方墳は岡山県北部で多く確認されていましたが、一丁ぐろ古墳は岡山県内でも2番目に大きく、県南部では最大の前方後方墳となることがわかりました。
また、調査時には円筒や壺の形をした埴輪が出土しており、当時の古墳祭祀を考える上で貴重です。

時代古墳時代前期(4世紀前半頃)
指定年月日平成28年2月5日
所有者・管理者南秦三部落自治会他
所在地総社市秦

経山城跡

Kyoyamajoato

吉備高原の南端に位置する、標高372.7mの山頂に築かれた山城です。平安時代、この一帯は山岳仏教の霊場として栄え、多数の経塚が築かれたことから、この城は経山城と呼ばれています。
経山城は三方を険しい谷に囲まれており、城に入るには北からの一本道という攻めにくい地形となっています。小型ではありますが、石垣、土塁、空掘からぼりなどで区画した堅固なつくりになっています。
『備中府志』によると、天文年間(1532年~1555年)に大内義隆おおうちよしたかによって築かれたとされています。後に毛利氏の所有となり、毛利氏配下の将であった小早川隆景がこれを修理し、二階堂氏・中島氏に城を守らせました。この城をめぐる攻防は大きく2回あり、1回目は天文12(1543)年のことで、出雲の富田城の合戦で手薄になった備中を取ろうと、播磨の赤松氏が攻めてきました。しかし、攻撃の準備中、将軍足利氏からほかの武将を追討するよう命令が下り、陣を引きあげました。次いで2回目は、元亀2(1571)年のことで、出雲の尼子氏によって経山城が包囲されました。しかし、小勢で城を守り、夜陰に乗じて火をかけ、尼子勢をしりぞけました。この城の堅固さを物語るものです。

時代戦国時代~安土桃山時代
指定年月日平成11年4月28日
所有者・管理者総社市
所在地総社市黒尾

伝備中国府跡

Denbichukokufuato

国府とは、律令制下、備前国・備中国などの各国に置かれた役所のことで、その国の政治上・軍事上の中心として、中央から派遣された国司という官僚が執務を行なったところです。
国司は、国を統治するため行財政・司法・軍事をつかさどり、郡の役人を指揮し徴税を行ないました。総社市が含まれる備中国は、9郡97郷が管轄下にあり、国府はそのうちの賀陽かや郡に置かれたと記録されています。国府が置かれた場所については定かではありませんが、「国府」「国府西」「北国府」などの小字名がみられる金井戸の地の中でも、「御所」の地名が残るこの場所が、有力な候補地になっています。
そのほか、総社宮付近や、西阿曽周辺に求める見解もありますが、いずれにせよ備中国府は総社市内に存在したものと考えられます。

時代奈良~平安時代
指定年月日昭和58年3月10日
所有者・管理者
所在地総社市金井戸

峠1・2・3号墳(歴史広場)

Togeichi・ni・sangofun

福山の西斜面には6世紀後半~7世紀中ごろの群集した古墳が数群あり、これらを三因みより古墳群こふんぐんと総称しています。このうち、最南端に位置する67基からなる古墳群を峠古墳群と呼んでいます。峠古墳群のうち、1~3号墳が村道の拡幅工事にかかることから、平成5(1993)~平成6年にかけて発掘調査が実施されました。
その結果、1号墳は径約11mの円墳で、墳丘の築造には人頭大の石を多く使っていたことがわかりました。2号墳は径約9mの円墳で、1号墳と同じく7世紀前半のものですが、より新しい段階のものです。3号墳は径約10mの円墳と考えられていますが、円弧を描かず直線的で鈍角にとがることから、多角形墳の可能性もあります。6世紀末~7世紀初頭に築造され、最終埋葬は7世紀末~8世紀初頭と考えられます。3号墳の第2石室は、長さ2.7m、幅0.76mをはかる小規模な横穴式石室です。3号墳の墳丘の端に接して、古墳を取り巻く堀の中に築かれた特異なもので、県内では他に例をみません。
墳丘の形状や、石室の築造が特異であることから、1~3号墳は移築して、築造当時の姿に復元し、この場所を歴史広場として公開しています。

時代古墳時代
指定年月日平成7年12月13日
所有者・管理者総社市
所在地総社市清音三因

増弁入定地

Zobennyujochi

増弁和尚は、寛文12(1672)年、市内諸上むらげ松尾まつお惣ヱ門そうえもんの三男として生まれました。13歳の時、金龍寺で修行僧として守るべき戒めを受け、名を慈観じがん、字を増弁と称しました。その後、28歳の春に金龍寺の住職となりますが、享保3・4(1718・1719)年と連続した飢饉ききんに、人々の苦しみを見ていることができず、祈祷きとうと20日間の断食を行ないました。享保17(1732)年には長雨とイナゴの害がおき、作物の収穫がほとんどできなかったことから、全国で96万余の人々が飢餓で苦しんでいました。
増弁は人々を救うため、弘法大師の九百忌にあたる享保19年3月21日を亡くなる日と定め、同年2月21日から五穀を断ち、3月1日より断食を始め、同21日の朝、身を清め、石の棺に入り、結跏趺坐けっかふざして、蓋を閉じさせ仏の世界に旅立ちました。

時代江戸時代
指定年月日昭和40年1月20日
所有者・管理者金龍寺
所在地総社市上林

江崎古墳

Ezakikofun

こうもり塚古墳に次いで、6世紀の後半に造られた備中地域最後の前方後円墳です。横穴式石室内には、井原市産出の貝殻石灰岩で造られた石棺せっかんが安置されており、中から20代後半から30歳にかかる壮年男性と、30代後半から40歳近い壮年女性の2体の骨が発見されています。
その他、棺を留めたと考えられる鉄くぎも出土していることから、木の棺も使用されていたと思われます。
出土した土器からみても、6世紀後半から7世紀のはじめまで何度か埋葬が行なわれたようです。須恵器や土師器はじきなどの土器、ガラス玉、鉄の矢じり(鉄鏃)、刀などのほか、吉備の首長にふさわしい金を張った馬具や耳飾、鏡などが共に埋葬されていました。

時代古墳時代
指定年月日昭和61年4月4日
所有者・管理者総社市他
所在地総社市上林

水谷家墓所

Mizunoyakebosho

初代水谷伊勢守勝隆みずのやいせのかみかつたかは、寛文4(1664)年5月3日68歳で没し、大龍寺殿鉄山全性大居士だいりゅうじでんてつざんぜんしょうだいこじの法名で定林寺じょうりんじ境内墓地に埋葬されました。二代勝宗は父の遺領をつぎ立派な藩政を敷いたが、ほとんど江戸詰であったため、元禄2(1689)年2月19日江戸で没し、墓は高輪の泉岳寺に葬られると『新修寛政重修諸家譜しんしゅうかんせいじゅうしゅうしょかふ』にあるが、現在は不明です。三代勝美かつよしは病弱のため、在任わずか5年で元禄6(1693)年10月6日(31歳)に没し、隆昌院殿天山全長大居士りゅうしょういんでんてんざんぜんちょうだいこじの法名で、初代勝隆の左側に埋葬されました。
水谷家墓所は、定林寺境内東北隅の少し小高い所に土塀をめぐらし、向かって右側が初代勝隆、左側が三代勝美の墓塔となっています。
いずれも石造五輪塔、材質は花崗岩、基礎(地輪)、塔身(水輪)、笠(火輪)、請花うけばな(風輪)、宝珠(空輪)で、基盤は三段からなり、基盤の下から宝珠の頂までの総高はいずれも314㎝です。

時代江戸時代
指定年月日昭和42年10月21日
所有者・管理者定林寺
所在地高梁市和田町

笠神の文字岩

Kasagaminomojiiwa

笠神は、昭和43(1968)年に完成した新成羽川ダムに水没したが、田原の上流約3㎞に位置します。川の中の大岩に文字を刻んだものが文字岩です。鎌倉時代の徳治2(1307)年に、日本でも無類の難所であった笠神龍頭の瀬かさがみりゅうずのせ、上下10余りの箇所を仏の加護によって、この河川の船路開発をした難工事を記念して、工事の経緯を刻んだものです。
大きさは周囲約16m、高さ約6m、中生代末の安山岩質ということです。石工「伊行経いのゆきつね」の名がみられ、伊行経は臍帯寺石幢ほそおじせきとうなどを製作した「井野行恒いのゆきつね」と同一人物であると考えられています。
この文字岩は、中世における成羽川を通じての経済・文化を解明するため、重要な意義をもつと同時に、わが国の河川交通史上最古の記念碑として、極めて貴重な史跡であります。
現在は、県道沿いに原寸大の模造石が展示されています。

時代鎌倉時代
指定年月日昭和16年2月21日
所有者・管理者高梁市
所在地高梁市備中町平川地内

布賀知行所跡

Fukachigyoshoato

備中松山藩主水谷氏は、元禄6(1693)年に無嗣改易むしかいえきとなるが、同族の勝時かつときが名跡を継ぎ、旗本寄合衆はたもとよりあいしゅうに列しえて、布賀に陣屋を開設しました。
以後、明治までの2世紀近くにわたって郡内采地ぐんないさいち(領地)の役所としての機能を果しました。敷地の広さは東西50間、南北30間の1,500坪(4,950㎡)であるが、そのうち約3,300㎡を指定しています。知行高は3,500石です。
跡地は明治以降小学校となり、現在はコミュニティ用地として活用されています。

時代江戸時代
指定年月日昭和61年7月1日
所有者・管理者高梁市
所在地高梁市備中町布賀

孝子碑

Koshihi

町内に在住していた与兵衛は、孝子の聞こえが高く、天明8(1788)年4代領主水谷兵庫勝政みずのやひょうごかつまさが幕府に上申して表彰され、「孝義録」に記載されました。
文化3(1806)年10月20日与兵衛没後、後世まで徳を讃えるため、村人が文化4年ごろ建立しました。撰書は、代官の熊本氏の一族 号冬川です。
碑の大きさは、高さ103㎝、横42㎝、下底42㎝、上底28㎝、奥行22.5㎝で、安山岩が用いられています。
今でも、命日にはこの地域の人々が子どもたちを集めて与兵衛祭りが行われています。
「孝義録」は老中松平定信が柴野栗山しばのりつざん等に命じて、諸国における孝順・忠悌の良民について編術されたもので、全50巻で寛政12(1800)年に編纂されました。

時代江戸時代
指定年月日昭和61年7月1日
所有者・管理者高梁市
所在地高梁市備中町布賀

成羽陣屋跡

Nariwajinyaato

山崎氏5千石の御殿跡で鶴首城址かくしゅじょうしのある鶴首山の山麓に北向きに築営されています。
万治元(1658)年山崎豊治やまさきとよはるが旗本としてお国入りし、直ちに御殿造営と陣屋町の構築を始めました。御殿は巨大な石垣に囲まれた正面に御庫門・大手門・作事門の三つの門跡があり、屋敷内はお庫・書院・お作事場の三区割になっており、外側は外園・下馬場・お壕がめぐらされています。  
お庫のある場所は水谷勝隆みずのやかつたかが築造したものですが、以後は山崎豊治が築営したもので石垣の積み方から築造の推移を知ることができます。御殿は東西に約276m、南北に広いところは約90m、御殿の裏に(南側)幅約3.9mのお壕があります。
現在、お庫跡は成羽小学校、書院等跡地西側は高梁市成羽地域局、お作事場と書院等東側は成羽美術館となっております。

時代江戸時代
指定年月日昭和35年6月23日
所有者・管理者高梁市
所在地成羽町下原

三村氏居館跡

Mimurashikyokanato

天文2(1533)年に星田郷ほしだごう(現:井原市美星町)より入部した戦国の武将三村家親みむらいえちかが本陣を西之坊において成羽川の北岸、成羽の中央の平地に築営した平城で、成羽城とも呼ばれています。
高い土塁(高さ4m、幅8m)に囲まれ、その外側には深いほりをめぐらせた堅固で広大なかまえの中世の武家屋敷です。
在城領主は三村家親、三村親成みむらちかしげ三村親宣みむらちかのぶと三村氏滅亡後は小早川隆景(本陣とする)、毛利氏(代官)、山崎家治やまさきいえはるです。山崎豊治やまさきとよはるからは月見・菊見等の宴に使用されたといわれます。
現在は土塁の一部が当時の名残をとどめています。古町はこの成羽城を中心に発達した陣屋町です。

時代戦国時代
指定年月日昭和35年6月23日
所有者・管理者高梁市
所在地成羽町成羽

山中鹿介墓

Yamanakashikanosukehaka

山中鹿助(1545~1578)は、雲州月山富田城うんしゅうがっさんとだじょう(現:出雲市広瀬町)の尼子氏に仕えた武将です。尼子氏が三代義久の時、毛利元就に滅ぼされ、鹿助は尼子勝久を擁して再興の兵をあげました。天正6(1578)年、織田信長の支援で播州上月城ばんしゅうこうづきじょうを攻略しましたが、毛利、宇喜多の連合軍に敗れて勝久は自害、鹿助は捕えられ、妻子、家臣60余名とともに毛利の本陣に護送中、阿井の渡しあいのわたしで討ち取られました。時に34歳でした。討死の場所には榎を植えて印としましたが、のちに洪水で流出しました。正徳3(1713)年、備中松山藩主石川氏の家臣前田時棟まえだときむね足軽佐々木軍六あしがるささきぐんろくが現在の供養塔を建立しました。
山中鹿助の首は鞆の浦(現:広島県福山市)に首塚として葬られており、胴体は落合町阿部地内に胴墓として祀られています。

時代安土桃山時代
指定年月日昭和31年6月1日
所有者・管理者高梁市
所在地高梁市落合町阿部

赤羽根イナリ古墳

Akabaneinarikofun

赤羽根イナリ古墳は落合町阿部にあり、平成14(2002)年に宅地造成中に発見され、直径14mほどの円墳と確認されました。発掘調査によって、この墳丘の裾部を巡るように石列を検出しており、葺石と考えられます。葺石が墳丘全体に葺かれていたかは不明です。
墳丘からは、5基の箱式石棺を検出しており、うち2棺からは、床に川原石を敷き詰め、石枕をして寝かされた人骨が出土しました。人骨には全体に赤色顔料が施されていました。築造時期は4世紀から5世紀の頃と考えられます。墳丘上に5棺もの埋葬施設を持つ古墳は珍しいものです。
周囲には赤羽根古墳群が知られており、過去の調査において箱式石棺が数多く発見され、人骨も出土しています。

時代古墳時代
指定年月日平成16年7月20日
所有者・管理者高梁市
所在地高梁市落合町阿部

八重籬神社

Yaegakijinja

寛政5(1793)年、備中松山藩主板倉勝政いたくらかつまさの時、神祇管領長占部朝臣良倶卿の宗源の神宣しんぎかんれいちょううらべあそんよしともきょうのそうげんのしんぎをもって八重籬の社号を贈られ板倉家始祖、板倉伊賀守勝重いたくらいがのかみかつしげ板倉周防守重宗いたくらすおうのかみしげむねを祭神として御根小屋(現:岡山県立高梁高等学校)内の馬場に奉安していたが、文政13(1830)年に現在地に改築されました。神社の性格として、あくまでも板倉氏の神社であり氏子は板倉氏のみであり、藩主直営の祭りが行われてきました。
現在は旧藩関係者も戊辰の役後、新政府へ職をもとめ、旧城下にほとんど居なくなり、近くの内山下・川端町によって維持管理が行われています。

時代江戸時代
指定年月日平成22年8月25日
所有者・管理者八重籬神社
所在地高梁市内山下

備中松山城御根小屋跡

Bichumatsuyamajoonegoyaato

備中松山城のある臥牛山の麓に位置しています。江戸時代に備中松山藩の政庁であり、備中松山城主が日常起居していた御殿屋敷の遺構です。
屋敷の地割りは高さ7mを越えます。時代により、野面積のづらづみ打込接うちこみはぎ切込接きりこみはぎの石垣を築いて上下二段に造成されており、上段に城主の居館である御殿が設けられていました。御殿は小松山山頂の「山城」に対し、「お城」と呼ばれ、通常登城といえばこの御殿に出仕することでした。
御殿や付属建物は明治6(1873)年の廃城令により解体撤去されましたが、総延長800mを超える石垣及び御殿の中庭はよく旧状をとどめており、現在、その跡地の大部分が岡山県立高梁高等学校用地となっています。なお、山城は解体運搬費用が高くつくからということで放置されていたといわれています。

時代江戸時代
指定年月日平成3年4月5日
所有者・管理者岡山県・高梁市
所在地高梁市内山下

備中松山城跡

Bichumatsuyamajoato

備中松山城跡は、市街地の北側にそびえ、大松山おおまつやま・天神の丸・小松山こまつやま・前山の四つの峰からなる臥牛山に築かれた山城です。
備中松山城の歴史は延応2(1240)年有漢郷の地頭秋庭三郎重信あきばさぶろうしげのぶが大松山に城を築いたことに始まります。その後、元弘の乱(1331)の頃には、備中守護職となった高橋宗康が、大松山のほかに小松山にも築城しており、この頃から徐々に城の範囲が拡大していったことが伺い知れます。また備中地域において、最も大きな戦いである「備中兵乱びっちゅうへいらん」時には、臥牛山には21の砦が築かれており、臥牛山全域まで城の範囲が拡大しています。
その後、小松山が近世城郭に整備され、天和3(1683)年に水谷勝宗みずのやかつむねによる大改修が行われ、現在の姿になったと考えられています。
史跡に指定されているのは、城内の8か所の遺構であり、北から「切通及び番所跡」「大池」「大松山城跡」「天神の丸跡」「相畑城戸跡あいはたのきとあと」「小松山城跡」「中太鼓櫓跡」「下太鼓の丸跡」です。中世の城郭とされるのが小松山城跡より北側にある大松山城跡・天神の丸跡・相畑城戸跡であり、曲輪くるわや堀切等が明瞭に残っています。また小松山城跡を中心とした近世城郭には、石垣をはじめ櫓跡の礎石などをみることができます。

時代鎌倉時代
指定年月日昭和31年11月7日
所有者・管理者国・個人(高梁市)
所在地高梁市内山下地内

土居・立石の道標

Doi・Tateishi・nodohyo

有漢町土居から長代へ入る県道の分岐点に立つ土居の道標は、高さ90㎝、一辺が22㎝の四角柱で先が尖っています。 「右びぜんかも道 尾原二里」「左ゆばら道 水田新町二里」と彫られ、裏に「安永七戌九月吉日あんえいなないぬくがつきちじつ」(1778)「山上講月山組中さんじょうこうつきやまくみちゅう」と彫られています。これと同じ形・大きさの道標が西組入り口の立石という所に立ち、「右ゆばら道」「左なかつい道」と彫ってあり、裏は土居のものと同じです。

時代江戸時代
指定年月日昭和50年5月1日
所有者・管理者岡山県・高梁市
所在地高梁市有漢町有漢地内

高田古墳

Takatakofun

有漢町畦地の明地みょうちにある有漢荘の北側にある円墳です。古墳時代後期のもので、南西に開口する片袖式の横穴式石室をもちます。円墳の直径18m、高さ3mで、石室の残存長9.5m、玄室長6.6m、幅1.75m、高さ1.7m、羨道幅1.4mを測り、天井石は7枚が残っています。
古来から火の釜と呼ばれていました。市内では最大級の規模の古墳です。

時代古墳時代
指定年月日昭和50年5月1日
所有者・管理者高梁市
所在地高梁市有漢町有漢

常山城跡

Tsuneyamajoato

有漢町茶堂、土居地区の境にあり、海抜265mの山頂部にある山城です。鎌倉時代の地頭秋庭氏の居館・正尺屋敷の南正面にあることから、本貫地を守衛する番手城とみられています。戦国時代には三村方の新山玄蕃允家住にいやまげんばのじょういえずみが居城し、その後肥田五兵衛ひだごへえが居城したといわれます。
頂上部の平坦面は三段になっており、最上部が主郭で約2m下って二の壇、更に1m下って三の壇が作られ、土塁、二重の堀切など堅固な備えがなされていた遺構がうかがえます。

時代鎌倉時代
指定年月日昭和50年5月1日
所有者・管理者高梁市
所在地高梁市有漢町有漢

結界石

Kekkaiseki

有漢町信清のぶきよにある祥雲寺しょううんじの山門前の石段脇に建っています。戒壇石ともいわれます。高さ128㎝、幅25㎝、厚さ21㎝の石柱で、正面に大きく
不許葷洒入山門くんしゅさんもんにいるをゆるさず」と彫られ、
裏に「現住十世鉄牛建焉げんじゅうじゅっせいてつぎゅうけんえん」とあり、安永年間(1772~1780)に建てられたものです。

時代江戸時代
指定年月日昭和50年5月1日
所有者・管理者祥雲寺
所在地高梁市有漢町有漢

二本松国境跡

Nihonmatsukunizakaiato

新見市と広島県庄原市との境、旧街道に接するところに御番所ごばんしょがあり、国境を示すものとして建てられました。すぐ側の国境標と同様に、江戸時代に作られたもので、高い価値を持っています。
建てられた当初は、二本松国境の語源になっている2本の松が道を挟んで備中側にありましたが、その後枯れ、現在は2代目の松が植えられています。この場所を訪れると木製の門柱を見ることができ、これを御境杭木おさかいこうぼくといいます。備後側には浅野領の番所がおかれ、浅野領福代村の役人と備中側天領大竹村の役人がそれぞれ東西別個の控室に詰め、交代で1人ずつ中央の板の間に出張って国境警備にあたっていました。

時代江戸時代
指定年月日昭和63年11月10日
所有者・管理者新見市
所在地新見市哲西町大竹

国境標

Kunizakaishirube

本標は、高さ170cm、幅23cm、厚さ20cmで、頂部が各推形をした石造角柱で、江戸時代に作られ、国境標として高い価値を持っています。
新見市側の標石には、正面に「従是東 備中国」、背面に「哲多郡大竹村」とあり、もう一方の広島県庄原市側の標石には正面に「従是西 備後国」、背面に「奴可郡 福代村」と彫られています。一時この標石は大竹艮神社おおたけうしとらじんじゃの境内に移されていましたが、現在は元の位置に移築されています。一方、庄原市の標石は庄原市東城町の徳了寺に移築されたままで、現在国境に置かれているものは複製品です。

時代江戸時代
指定年月日昭和53年9月11日
所有者・管理者新見市
所在地新見市哲西町大竹

ゆずりは城跡(楪城跡)

Yuzurihajoato

ゆずりは城の築城者・築城時期については、資料がないため判然としていませんが、新見氏が築城者と伝えられています。
永禄年間(1558~1570)頃、三村氏に攻められて新見氏は敗走し、三村元範が城主となり城の拡張・整備を進めるとともに、支城の整備も行いました。本城跡は、標高420~490mで平地との比高約200~240mの南北に延びる尾根線上に築かれた連郭式山城で、本丸・二の丸・三の丸からなります。本丸は、このうち最北の標高470~490mの尾根頂部一帯に築かれており、4つの郭で構成されています。
備中北部では、備中松山城に次ぐ規模を誇っていた城として貴重な史跡です。

時代室町時代頃
指定年月日平成15年8月2日
所有者・管理者新見市
所在地新見市上市

関長治・関政辰墓所

Sekinagaharu・Sekimasatokibosho

新見藩初代藩主の関長治及び4代藩主の政辰の墓所は西来寺せいらいじにあります。
このお寺は、元禄11(1698)年に長治から下賜された現在地に良高和尚りょうこうおしょうが堂塔を建立し、関家の菩提寺としたことに始まります。
長治は元禄10年に新見藩初代藩主となり、新見へ入府後、御殿・家中屋敷などを整備し、現在の新見の基礎を築き、元文3(1738)年に亡くなりました。政辰は4歳にして4代藩主となりますが、安永3(1774)年にわずか18歳で亡くなりました。
墓所は、正面に基壇上に築かれた長治の墓標があり、その後方に政辰の墓標が建立され、それぞれに水盤と一対の石燈籠が設けられています。

時代江戸時代
指定年月日昭和57年9月7日
所有者・管理者西来寺
所在地新見市新見

御神幸武器行列(船川八幡宮秋季大祭)

Ourajinjakeibashinji

鉄砲などの武器を携えた総勢64名が町中を練り歩き、観衆は腰を落として迎える。その光景から「土下座まつり」と言われる。毎年10月15日開催。

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鋤崎八幡神社秋祭り

SukisakihachimanjinjaAkimatsuri

例年11月3日に行われる秋祭りで、「渡り拍子」「湯立て神事」「御神幸」に続き、最後に拝殿で「宮座行事」が行われます。

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関連記事秋祭り【鋤崎八幡神社】

備中神楽

Bichukagura

備中神楽は、荒神神楽を起源とし、江戸時代末期、成羽の神官西林國橋が演劇性の濃い神代神楽を創案して人気を呼びました。

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日吉神社祭礼

HiyoshijinjaSairei

日吉神社に伝わる行事で、白装束を着た神輿を担ぎ、地元の男たちが勇壮に練り歩く。日本の祭りの伝統を今に伝えている。

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おはげ神事

Ohageshinji

秋祭りに当番組が執り行う民族行事で、大当番の家の庭などに「御刷毛」と呼ぶ独特の長い竹に大きな御幣を付ける神事。

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矢掛の宿場まつり大名行列

YakagenoShukubamatsuri(Daimyogyoretsu)

江戸時代の参勤交代の様子を模し、絢爛豪華な時代絵巻が繰り広げられる。毎年11月第2日曜日に矢掛商店街で開催。

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大浦神社競馬神事

Ourajinjakeibashinji

県指定重要無形民俗文化財に指定されている神事。氏子たちが尾長鶏の羽でつくった赤熊(しゃぐま)を冠り、豊作への感謝と平安を祈って跳ね踊る伝統行事です。

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マップ内関連記事大浦神社
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芳井町 三原の渡り拍子

MiharanoWataribyoshi

県指定重要無形民俗文化財に指定されている神事。氏子たちが尾長鶏の羽でつくった赤熊(しゃぐま)を冠り、豊作への感謝と平安を祈って跳ね踊る伝統行事です。

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嫁いらず観音院大祭

Yomeirazukannonintaisai

嫁の手を煩わせることなくいつまでも健康で幸福な生涯を全うできるというご利益があり、お彼岸の中日の大祭には市内外の多くの方が参拝されます。

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おわけ祭り

Owakematsuri

五穀豊穣や地域の安全を祈願する神事「おわけ祭り」が、鴨方町小坂地区で古来より受け継がれている。

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赤米の保存継承

Akamainohozonkeisho

総社市新本では、新庄・本庄両国司神社の赤米の神饌という伝統行事があり、お供えする赤米を古くから栽培し保存伝承しています。

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五流尊龍院 護摩供養

GoryusonryuinGomakuyo

「採燈大護摩」は、護摩台を作り、火を焚いて仏を招き、願事の達成を祈願するものです。

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マップ内関連記事五流尊瀧院の採燈護摩【五流尊瀧院】
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寂光院庭園

Jakkointeen

寂光院に至る大谷別所の地は古来深山幽谷の趣があり、備前の閑谷に似ているところから「小閑谷」と称し、人々に親しまれいます。庭園は江戸時代に築庭され、中世の雰囲気を残した幽遽閑静を保った回遊式庭園で春秋訪れる人が絶えない。紅葉時期には、辺り一面が絶景となります。

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所在地浅口市金光町大谷1055

三ツ山

Mitsuyama

三ツ山は、三郎島西南沖に浮かぶほぼ同じ大きさの三つの小島で高さは各約10メートルを測ります。かつては島山に各一本の枝振りのよい青松が生え、干潮時には一塊となって続き、満潮時には離れて三島となります。元々一続きに連なる島であったが海蝕により分岐したものであります。波静かな瀬戸内海に浮かぶ景観は、さながら一幅の絵のような佇まいを見せる。毎年元日の日の出には、多くの写真家や観光客を集める市内きっての名勝である。

所在地浅口市寄島町三郎地内

つばきの丘運動公園つばき広場

Hayashimakoen

岡山県道393号鷲羽山公園線(鷲羽山スカイライン)から水島コンビナートを臨む風景です。現在、岡山県道393号は無料で通行することができます。高所から日本でも有数の工業地帯である水島コンビナートを俯瞰することができ、夜景もとても綺麗です。

電話番号0865-64-7266
開館時間8:30~21:30
料金なし
所在地浅口郡里庄町里見
休館日年末年始

地蔵岩ヤッホー公園

jizoiwa yahho koen

岡山県道393号鷲羽山公園線(鷲羽山スカイライン)から水島コンビナートを臨む風景です。現在、岡山県道393号は無料で通行することができます。高所から日本でも有数の工業地帯である水島コンビナートを俯瞰することができ、夜景もとても綺麗です。

早島公園

Hayashimakoen

岡山県道393号鷲羽山公園線(鷲羽山スカイライン)から水島コンビナートを臨む風景です。現在、岡山県道393号は無料で通行することができます。高所から日本でも有数の工業地帯である水島コンビナートを俯瞰することができ、夜景もとても綺麗です。

電話番号086-482-0614
所在地都窪郡早島町早島1329-1

水島展望台

Mizushimatenbodai

岡山県道393号鷲羽山公園線(鷲羽山スカイライン)から水島コンビナートを臨む風景です。現在、岡山県道393号は無料で通行することができます。高所から日本でも有数の工業地帯である水島コンビナートを俯瞰することができ、夜景もとても綺麗です。

所在地倉敷市呼松町地内

鷲羽山山頂

Washuzansancho

鷲羽山山頂から瀬戸大橋を臨む風景です。鷲羽山レストハウスから山頂へ向けた鷲羽山自然研究路は瀬戸大橋と瀬戸内海を一望しながら登ることができます。山頂は周囲を遮るものが無く、360度見わたすことができます。高所から瀬戸大橋や瀬戸内海の島々、行き交う船の様子までしっかりと見ることができる絶景ポイントです。

所在地倉敷市大畠地内

太鼓田植

Taikotaue

「さげ」が打つ太鼓に合わせて、田植歌を歌い、「植え子」という花笠姿の早乙女が苗を植えていく。田の神を称え、五穀豊穣を願う。

マップ内関連記事太鼓田植
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備中たかはし松山踊り

BichutakahashiMatsuyamaodori

岡山県三大踊りの一つ。慶安元年(1648)、備中松山藩主水谷勝隆の時代に、五穀の豊穣と町家の繁栄を祈って踊ったのが始まりと言われてる。

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関連記事備中たかはし松山踊り

大島傘踊り

OshimaKasaodori

大島の傘踊り(県指定)は二人一組になり、傘を刀に見立てて切り合うように踊る点が特徴です。

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関連記事大島傘踊り

白石踊

Shiraishiodori

白石島に伝わる白石踊(国指定)は、一つの口説き(音頭)に合わせて何種類もの踊りを踊る点が特徴です。

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関連記事白石踊

大原踊り

Oharaodori

約450年前、戦没者の霊を鎮めるために始められた大原踊り。大原踊り保存会を中心に、後世へ受け継がれています。

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関連記事大原踊り

鶴崎神社秋季大祭・神幸祭

TsurusakijinjaShukitaisai・Shinkosai

毎年10月の第3日曜日に神輿を中心に供人や鬼が巡行する早島町伝統の秋祭り。各地で子供神輿も花を添える。

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関連記事神幸祭

鴻八幡宮祭りばやし

KohachimanguMatsuribayashi

鴻八幡宮に伝えられる祭りばやしで、秋の祭礼日に各町内の「だんじり」で演奏されます。「しゃぎり」と呼ばれます。

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マップ内関連記事秋祭りと祭りばやし(しゃぎり)【鴻八幡宮】

乙島祭り

Otoshimamatsuri

乙島祭りは、玉島乙島の戸島神社で10月最終日曜日に行われます。大場物が早朝集まり、その後町内を練り廻ります。

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マップ内関連記事乙島祭り【戸島神社】
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神島天神祭【神島天神社】

KonoshimatenjinmatsuriKonoshimajinja

「島の天神」と呼ばれ、古来、景勝地として知られていました。境内に万葉歌碑、頼山陽詩碑が立っています。神島天神祭では、七つの地区の千歳楽がこの神社に集まり、クライマックスの総担ぎを行います。

所在地笠岡市神島5335
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真鍋島の走り神輿【真鍋島八幡神社】

ManabeshimanohashirimikoshiManabeshimahachimanjinja

元禄年間の創建と伝えられます。「走り神輿」では、3基の神輿の出発地点になります。神輿は、一日目は境内で走る練習「かけならし」を行います。二日目には石段を降りて海岸で漁船に乗り、本浦集落へと到着した後、島内の道を駆け抜けます。三日目には陸路で神社へと帰ってきます。

所在地笠岡市真鍋島4912
関連記事真鍋島の走り神輿

大倉の渡り拍子【妙劔神社】

OkuranowataribyoshiMyokenjinja

布東妙見宮として「宮ノナル」に祀られた。その後、宮は大倉字萱野の共有山林に移されたと伝えられる。宝暦2年、現在の場所に新築し、祝神様として祀られた。その時に大倉明剣神社と改名されたと伝わる。大正12年、本社を銅板の屋根造りにした。昭和36年、幣殿、前殿、神輿庫、社務所を改築。昭和50年、鳥居の移転をして参道が作られた。

所在地井原市美星町大倉1015
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渡り拍子(三原)糸崎八幡神社・中山天神社の神事【中山天神社】

Wataribyoshi(Mihara)Itosakihachimanjinja・Nakayamatenjinjanoshinji

応永2年藤原秀郷の後裔田中市之進が中山に小彦名命を勧請し、天神と奉称した。寛正年間備後の国桜山城主が東川手村に落ちて来て三原三郎四郎家房と称し、村を東三原と改め、神社名を中山天神社として氏神とした。

所在地井原市芳井町東三原3295
マップ内関連記事三原の渡り拍子
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渡り拍子(三原)糸崎八幡神社・中山天神社の神事【糸崎八幡神社】

Wataribyoshi(Mihara)Itosakihachimanjinja・Nakayamatenjinjanoshinji

寛正2年備後国納所村桜山城主三原豊後守が落ちてきて、三原三郎四郎と称し西川手村糸崎に本神社を勧請し、西三原村と改めこの神社を氏神とした。明治39年10月18日本殿ならびに社殿を改築した。大正9年摂社の荒神様、水分神社、太歳神社を合祀。旧村社。

所在地井原市芳井町西三原字糸崎1419
マップ内関連記事三原の渡り拍子
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郷社まつり【足次山神社】

GosyamatsuriAsuhayamajinja

平安時代の「延喜式(えんぎしき)」の神名帳(じんみょうちょう)に記載された神社は、「式内社(しきないしゃ)」と称され、歴史の古い、格式の高い神社と見なされており、足次山神社も式内社に当たるとされている。江戸時代には、足次大明神(あすはだいみょうじん)として尊信されたが、明治元年に足次山神社と改称、明治5年には郷社に列せられた。

所在地井原市井原町25
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由加山火渡り大祭【由加神社本宮】

YugajinjahonguYugasanHiwataritaisai

全国に五十二の分社を持つ由加神社の本宮。日本三大権限の一つ、また厄除けの総本山としても知られる。江戸時代からは岡山藩主池田候の祈願所として栄え、時期を同じくして『ゆがさん・こんぴらさん両参り』と云われ、両宮をお参りすればご利益が沢山頂けるとう『両参り』の風習が広がり、今も全国津々浦々から信仰されています。また、境内には多くの文化財が点在しており、なかでも日本一の備前焼大鳥居や子授けの楠、消痛の小槌(宝物)は珍しく、本殿は県指定重要文化財です。由加の大神様・権現様は「有求必應」求めが有れば必ず応じて下さる神様として、年間を通じて多くの方がご参拝にご来宮されています。

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電話番号086-477-3001
所在地倉敷市児島由加2852
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由加山厄除不動大祭の火渡り【由加山蓮台寺】

YugasanrendaijiYugasanyakuyokefudotaisainoHiwatari

由加山蓮台寺は約1300年前、行基菩薩により「瑜伽大権現」を「瑜伽山」に迎え、「本尊十一面観世音菩薩」を彫りだし、祀り創建されたと伝えられています。

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電話番号086-477-6222
所在地倉敷市児島由加2855
関連記事由加山厄除不動大祭の火渡り

茶屋町の鬼と秋祭り【稲荷神社】

InarijinjaChayamachitoAkimatsuri

稲荷神社は、享保18年(1733年)に伏見稲荷神社(京都)の御分霊を勧請して創建されたと伝えられています。

所在地倉敷市茶屋町1547
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茶屋町の鬼と秋祭り【住吉神社】

SumiyoshijinjaChayamachitoAkimatsuri

住吉神社は、宝永6年(1709年)に領主戸川公により摂津国堺に御鎮座の住吉四柱神を勧請して創建されたと伝えられています。

所在地倉敷市茶屋町早沖690
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茶屋町の鬼と秋祭り【茶屋町駅前鬼広場】

ChayamachiekimaeonihirobaChayamachitoAkimatsuri

所在地倉敷市茶屋町448
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べちゃ祭り【疫神社(塩生神社)】

Ekijinja(Shionasujinja)Bechamatsuri

所在地倉敷市塩生1254
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乙島祭り【戸島神社】

ToshimajinjaOtoshimamatsuri

戸島神社は、「養父母大明神」という祠が始まりとされています。その後、約650年前にその祠が現在の場所に移され、社殿が建設されました。明治4年(1871)に乙島八幡山の八幡宮を合祀し、「戸島神社」に改称されました。

電話番号086-522-3377
所在地倉敷市玉島乙島1251
マップ内関連記事乙島祭り(映像資料)
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茅の輪くぐり・砂持ち祭り・阿智神社秋祭りの素隠居と屏風祭り【阿智神社】

AchijinjaChinowakuguri・Sunamochimatsuri・AchijinjaAkimatsurinoSuinkyotoByobumatsuri

阿智神社は、約1700年前に阿知使主(あちのおみ)一族が、日本最古の蓬莱様式の古代庭園がを造り、そこをもととして海の守護神である宗像三女神を祀ったことが始まりと伝えられています。

電話番号086-425-4898
所在地倉敷市本町12-1
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玉島天神祭り【羽黒神社】

HagurojinjaTamashimatenjinmatsuri

羽黒神社は、1658年に、備中松山藩主である水谷勝隆公が玉島地区の干拓をする際に、干拓工事の成功を祈願して出羽国の羽黒神社を勧請して社殿が創建されたと伝えられています。

電話番号086-522-2695
所在地倉敷市玉島中央町1-12-1
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五流尊瀧院の採燈護摩【五流尊瀧院】

GoryusonryuinnoSaitogoma

五流尊流院は、約1300年前に修験道の祖・役行者が児島に上陸し、この地にご神体を安置し、そのその高弟5人が尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建造したのが始まりと伝えられています。旧正月23日夜から24日早朝にかけて行われるお日待ち祭は1,300年の伝統があると伝えられています。

電話番号086-485-0027
所在地倉敷市林952
マップ内関連記事五流尊龍院護摩供養
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不洗観音寺の初観音大法会【不洗観音寺】

ArawazukannonnoHatsukannondaihoe

不洗観音寺は、約1200年前の天平年間に行基菩薩と菩提僧正の2人が観音像に開眼供養し、安置したのが始まりと伝えられています。特に子宝・安産のご利益で有名で、安産を祈願して生まれた子どもが、三日三晩のあいだ産湯をつかわせなくても、体が血で汚れることも不浄になることもなく、きれいな子に育つと言われ、「不洗(あらわず)観音」と呼ばれるようになったと伝えられています。

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電話番号086-425-2334
所在地倉敷市中帯江820
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おわけ祭り【小坂八幡神社】

Owakematsuri(Kosakahachimanjinja)

小坂八幡神社は元は八幡宮と称し、小坂東・小坂西・深田村の氏神でありました。神社の由来は、筑紫国(福岡県)より勧請したと伝えられています。10月5日には神功皇后の伝説にまつわる「おわけ祭り」(市指定無形民俗文化財)も行われます。

所在地浅口市金光町佐方2480-1
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大浦神社競馬神事【大浦神社】

OurajinjakeibashinjiOurajinja

大浦神社の当初の社殿は、三郎島の霊地に祀られていましたが、戦国時代の永禄年間に武将の細川通董により現在の地に移されました。本殿の建物は入母屋造で、1996年には絵馬殿が新築されました。10月第1土・日曜日に行われる秋季大祭では、神輿、御船、奴、千歳楽が境内を威勢よく練り、競馬神事も行われます。

電話番号0865-54-2408
所在地浅口市寄島町7756
マップ内関連記事大浦神社競馬神事(映像資料)
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ひがさき踊り(金光町)【諏訪神社】

Higasakiodori(Konkocho)Suwajinja

諏訪神社は、武将の細川通董の家臣である藤沢越中守が故郷の信濃国(長野県)の諏訪神社を勧請したと伝えられています。慶長年間(1596年から1615年)に社家神田氏によって村の氏神として祭られるようになりました。現在の社殿は、昭和17年に再建したものであります。

所在地浅口市金光町佐方2480-1
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御崎神社の百手講神事【御崎神社】

OnzakijinjanoMomotekoushinji

創立は不詳。記録によれば慶長年間とされている。吉備津彦命が賊を退治して村人を救われたので命が御祭神として祀られている。参道には宝暦年間、文化年間の銘がある石燈籠各一基の建立等がある。

画像提供YACK
所在地小田郡矢掛町南山田1062
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矢掛の宿場まつり・大名行列【旧矢掛脇本陣髙草家住宅】

YakagenoShukubamatsuri(Kyuyakagewakihonjintakakusakejutaku)

脇本陣髙草家は、文化12年に矢掛村庄屋となり、安政5年には、大庄屋になった「大髙草」と呼ばれた旧家である。宝暦年間より随時増築しており、江戸時代末期から明治時代初期にかけての建物が多い。

電話番号0866-82-2100(矢掛町教育委員会)
開館時間土・日のみ
料金高校生以上300円、小中学生150円(団体割引あり)
所在地小田郡矢掛町矢掛1981
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矢掛の宿場まつり・大名行列【旧矢掛本陣石井家住宅】

YakagenoShukubamatsuri(Daimyogyoretsu)

石井家は江戸時代初期から山陽道矢掛宿の本陣職を努め、宝永5年(1708)以降代々大庄屋を努めた旧家で、元禄頃から酒造業を営んでいた。屋敷は旧山陽道に面し、間口20間(36.4m)、敷地面積959坪(3164㎡)で、本陣の座敷・御成門と石井家の主屋などからなっている。

電話番号0866-82-2110(郷土美術館)
開館時間9:00~16:00(3月~10月:17:00まで)
料金高校生以上400円、小中学生200円(団体割引あり)
所在地小田郡矢掛町矢掛3079
休館日月曜日(月曜日が祝日等の場合はその翌日)・年末年始
マップ内関連記事矢掛の宿場まつり大名行列(映像資料)
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夏祭り(輪くぐり)【貴布禰神社】

KifunejinjanoNatsumatsuri(Wakuguri)

貴布禰神社は京都の貴船神社の祭神を元禄年間に分祀したと伝えられ、板倉摂津守の祈願所だった。現在は病気回復、戦中は兵士の無事を祈願していた。

画像提供佐藤道晴氏
所在地小田郡矢掛町江良1807
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秋祭りと祭りばやし(しゃぎり)【鴻八幡宮】

KohachimangunoAkimatsuritoMatsuribayashi(Syagiri)

鴻八幡宮は、約1300年前の大宝元年(701年)に創建されたと伝えられている。古来から琴浦地区の総氏神として広く信仰されていた。この宮は古くは鴻の宮と言い、鴻の鳥と大蛇の伝説が「備陽記」「和気絹」などに伝えられている。

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電話番号086-472-3125
所在地倉敷市児島下の町7-14-1
マップ内関連記事鴻八幡宮祭りばやし(映像資料)
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かいごもり祭【岩山神社】

Kaigomorimatsuri

岩山神社は、約1100年前の寛平元年(889年)に、伊勢大神宮及び出雲杵築大社八雲山大神を勧請し、黒岩山中に造営されたと伝えられている。もと三十八社岩山大明神といい、周辺地域に散在する三十八社を末社とする総代神である。

所在地新見市唐松3286
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蛇形祭り【綱之牛王神社】

TsunanogoojinjanoJagatamatsuri

綱之牛王神社は、その名のとおり、牛馬の守護神として人々から信仰されています。社には綱が掛けられており、牛が暴れ狂うときは、牛綱を持って参拝し、前に掛けてあったものと取り替え、牛を繋ぐとおとなしくなるとされています。他にも、牛の安産祈願等で参拝する人がいるとされています。

所在地新見市哲西町上神代3394-3
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神田祭り【由井八幡神社】

JindenmatsuriYuiyahatajinja

由井八幡神社は別名:三社八幡宮ともいわれています。社地は新見市大佐田治部の勘定部落の西端にある小さな社です。部落全戸が氏子となり、古くから伝わる祭事を継承保存している点は、先人の生活を知る上で注目に値するものとされている。

所在地新見市大佐田治部5942
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御神幸武器行列(土下座まつり)・酒造献供・湯立ての神事【船川八幡宮】

Goshinkobukigyoretsu(dogezamatsuri)・Yutatenoshinji・Shuzokengu

船川八幡宮は天永年間(1110年~1112年)に、京都山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)から、新見新町の今市(現在の新見宮地町)へ勧請し惣社として創建されたと伝えられており、正徳5年(1715年)に、現在地に遷座しました。その後、船川八幡神社に社号を改称したが、平成3年に再び船川八幡宮に改称した。

所在地新見市新見1781
マップ内関連記事船川八幡宮(映像資料)
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関連記事2湯立ての神事
関連記事3酒造献供

宮座【倉嶋神社】

MiyazaKurashimajinja

倉嶋神社は、海神系の神社で宗像神を主祭神としています。宗像神が、古代に日本海沿岸伝いに東進を続け、出雲大社に祀られ、出雲文化の浸透に伴い、国主神社が勧請されたと軌を一にして、現在の地にも祀られることになったものとされています。

所在地新見市千屋995
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宮座【亀尾神社】

MiyazaKameojinja

亀尾神社は十二社権現ともいわれており、創建由緒などは定かではないが、大山権現が勧請され、大山信仰この地に広まったことが契機ではないかと考えられる。亀尾神社の名の由来は神社のある小高い丘が亀の形に似ていることからともいわれています。

所在地新見市神郷髙瀨2439
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宮座【氷室神社】

MiyazaHimurojinja

氷室神社には、久久紀若室葛根命(ククキワカムロツナネノミコト)を主祭神とし、相殿には仁徳天皇が祀られています。氷室神社の近くには備中国府に運ぶための氷室が幾つかあったことや、付近に三室といった地名があったことが、氷室神社の名の由来になったと考えられています。

所在地新見市神郷髙瀨1243
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虫送り祈祷【市岡阿弥陀堂】

MushiokurikitoIchiokaamidado

所在地新見市哲西町上神代1196
関連記事虫送り祈祷

お田植祭り【日咩坂鍾乳穴神社】

HimesakakanachianajinjanoOtauematsuri

日咩坂鍾乳穴神社は、古くより霊地として崇拝されていた日咩坂鍾乳穴の大洞穴の真上に、約1300年前の天平勝宝2年(750年)に造営されたと伝えられている。その後、本宮の東方平地(現在地)に社殿を造営し、文化12年(1815年)に本殿を再建立したとされている。

所在地新見市豊永赤馬6352
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太鼓田植【夢すき公園】

TaikotaueYumesukikoen

日本一の親子孫水車が並んでおり、「紙の館」では、備中北部で古くから伝わる奥備中神代和紙の歴史を学ぶことができます。また、紙すき体験ではオリジナルのうちわやはがきを作ることもできます。※紙すき体験:うちわ600円、色紙500円、はがき300円

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電話番号0867-92-6577
開館時間9:00~17:00
所在地新見市神郷下神代1977-1
休館日毎週水曜日
関連記事太鼓田植

太鼓田植【きらめき広場】

TaikotaueKiramekihiroba

きらめき広場は、道の駅「鯉ヶ窪」に隣接して整備した複合公共施設として平成13年(2001年)に建てられました。市支局・図書館・生涯学習センター・文化ホール・医療施設等を集約整備されており、地域・コミュニティの核としての役割を担っています。

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電話番号0867-94-2111
開館時間9:00~22:00
所在地新見市哲西町矢田3604
休館日なし
マップ内関連記事太鼓田植(映像資料)
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よはかり【三穂明神社】

YohakaliMihomyojinja

所在地新見市哲西町大野部4584-1
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砂持ち祭り【穴場神社】

AnabajinjaSunamochimatsuri

穴場神社は、1798年に愛媛県大三島町大山祇神社から分霊した盤長姫を祀ったことが始まりと伝えられています。

電話番号086-425-4898
所在地倉敷市本町12-1
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茅の輪くぐり【御崎神社】

OnzakijinjaChinowakuguri

所在地倉敷市船穂町柳井原1322
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茅の輪くぐり【足高神社】

AshitakajinjaChinowakuguri

足高神社は、約2000年前の崇神天皇の時代に創建されたと伝えられています。当社に残る一番古い書物は、平安時代・醍醐天皇延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳です。この中に備中18社の1に数える最古社であるとわかる記載があります。

電話番号086-425-7292
所在地倉敷市笹沖1033
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砂持ち祭り【熊野神社】

KumanojinjaSunamochimatsuri

熊野神社は、後三条天皇の発願により創建された神社で、鳥居には天皇直筆の勅額があったと伝えられています。それらのことが書かれた書類や鳥居は、天正年間(1573~1592年)の火災で焼失したといわれています。

電話番号086-465-6275
所在地倉敷市西阿知町450
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星の郷・美星

Bisei

美星町は星が美しく見える町。光害防止条例で星空を守る。七夕の日などは天の川を見ようと夜遅くまで見物客で賑わう。

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マップ内関連記事美星天文台

彫刻界の巨匠・平櫛田中

DenchuHirakushi

岡倉天心に師事。写実的な作風で日本近代を代表する彫刻家の一人。代表作は「鏡師子」。1962年文化勲章を受章。

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マップ内関連記事田中美術館
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矢掛が生んだ「大字かな」の先駆者 田中塊堂

KaidoTanaka

矢掛町名誉町民。流麗なかな文字の書家として活躍。日本書道界の重鎮として芸術、文化の向上に大きく貢献した。

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マップ内関連記事やかげ郷土美術館
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宿場町の歴史を今に伝える  矢掛本陣・矢掛脇本陣

Yakagehonjin・Yakagewakihonjin

宿場町としての面影を残す街並みのシンボル。参勤交代時に大名等の宿泊場所として使われた。当時の資料も多数残る。

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山田方谷も師事した儒学者 丸川松隠

ShoinMarukawa

江戸時代後期の儒学者。新見藩校・思誠舘の督学に就任し、山田方谷など多くの人材を育てた。政治参与としても活躍。

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マップ内関連記事雲居寺
関連記事山田方谷
関連記事2丸川松隠

中世のロマン 備中国 新見庄

Niiminosho

室町時代の新見庄は相国寺と東寺の荘園。国宝「東寺百合文書」の中に「たまがき書状」を含む約2000点の関連資料がある。

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社会福祉の先駆者 留岡幸助

KosukeTomeoka

宗教家、社会福祉家。伝道者ケレーの話に感激し、牧師や教誨師として伝道や犯罪者の救済に努め、感化院、家庭学校を創立。

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マップ内関連記事高梁基督協会
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天守の残る唯一の山城 備中松山城

BichuMatsuyamajo

国重要文化財。現存天守を持つ山城では最も高い位置にある。雲海に浮かぶ天守の様子から「天空の山城」と呼ばれる。

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マップ内関連記事備中松山城

日本の原子物理学の父 仁科芳雄博士

YoshioNishina

「日本の原子物理学の父」と呼ばれる物理学者。「クライン・仁科の公式」を導出。理化学研究所仁科研究室を主宰した。

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マップ内関連記事里庄町歴史民俗資料館
マップ内関連記事2仁科芳雄博士生家
マップ内関連記事3仁科会館(科学振興仁科財団)
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ふるさと逸品 まこもたけ

Makomotake

里庄町の特産品。イネ科の多年草「まこも」の肥大化した茎。シャキシャキとした触感が特徴で中華料理では高級食材とされる。

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笠岡で生まれた日本画家 小野竹喬

OnoChikkyo

笠岡市生。近現代日本画壇を代表する画家。日本の自然の美しさを描き続けた。文展の特選受賞など、数々の名作を残す。

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マップ内関連記事笠岡市立竹喬美術館
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笠岡の風土が生んだご当地ラーメン

Kasaokaramen

笠岡市は養鶏と製麺が盛んな土地。鶏がらスープと煮鶏を使った笠岡ラーメンが親しまれる。魚介スープをあわせたものもある。

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天文のまち あさくち

Asakuchi

浅口市は天体観測に適した地。岡山天体物理観測所・岡山天文博物館があり、京大・岡山・3.8m新技術望遠鏡も建設される。

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マップ内関連記事岡山天文博物館

浅口の奇才 小野光右衛門

MitsuemonOno

金光町の庄屋。政治・和算・暦・地図測量・天文観測と多くの業績を残す。和算の入門書「啓廸算法指南大成」も出版した。

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マップ内関連記事小野家庄屋跡

早島町花ござ手織り伝承館

HanagozaDenshokan

花ござ手織りの伝統技術を保存継承する施設。昔ながらの手織りで花ござを織る教室を開催。

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マップ内関連記事早島町伝統工芸伝承館(花ござ伝承館)

石見銀山を再興した安原伝兵衛

DenbeeYasuhara

早島町出身。石見銀山を再興し、徳川家康から『備中守』の称号を受領。鶴崎神社の毘沙門堂や吉備津神社の御釜殿などを寄進。

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マップ内関連記事安原備中守供養塔
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総社市で生まれた画聖 雪舟

Sesshu

水墨画を大成した総社市出身の禅僧画家。井山宝福寺には、涙でネズミを描いた逸話が伝わる。作品6点が国宝に指定。

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マップ内関連記事宝福寺
関連記事雪舟

古代吉備文化発祥の地 総社市

Soja

作山古墳やこうもり塚古墳、備中国分寺、備中国分尼寺跡など、貴重な文化財が数多くあり、歴史的景観が広がる地域。

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マップ内関連記事備中国分寺

地域で受け継がれる町並み 倉敷美観地区

KurashikiBikanchiku

江戸幕府の直轄地「天領」。物資の集積地として繁栄。町家やなまこ壁の蔵が立ち並び、美しい白壁の町並みを形成している。

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倉敷の礎を築いた 大原孫三郎

MagosaburoOhara

実業家。大原美術館、大原奨農会農業研究所、倉敷中央病院、中国電力、倉敷商業高校などを創設、労働問題にも取り組んだ。 

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マップ内関連記事倉敷紡績記念館
マップ内関連記事2旧大原家住宅
マップ内関連記事3大原美術館
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森田思軒生家跡地石碑

Moritashikenseikaatochisekihi

所在地笠岡本町商店街の一角
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森田思軒墓

Moritashikennohaka

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所在地笠岡市笠岡字小丸1787
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笠岡市立図書館「森田思軒顕彰コーナー」

KasaokashilitsutoshokanMoritashikenkenshocorner

笠岡市立図書館には、森田思軒顕彰コーナーとして、遺品などが展示されています。思軒の墓は東京都にありますが,笠岡(笠岡小学校裏手)の墓地にも分骨して墓がつくられています。また、生家(笠岡西本町)の建物は失われていますが,その跡地に小さな石碑が立っています。

電話番号086-563-1038
開館時間9:30~18:00/19:00
料金無料
所在地笠岡市六番町1-15
休館日月曜日・祝日・年末年始ほか
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井戸公園

Idokoen

所在地笠岡市笠岡(威徳寺隣)
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威徳寺

Itokuji

井戸平左衛門の墓は笠岡の曹洞宗威徳寺にあります。威徳寺横の井戸公園では、井戸代官をしのぶ有志により植えられた桜に囲まれて、「井戸明府碑」が立っています。また、笠岡湾干拓地にある「道の駅笠岡ベイファーム」の片隅にも、「井戸明府碑」が近年建てられました。

所在地笠岡市笠岡5418
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「一如」の碑

Ichinyonohi

笠岡の古城山公園には、白印の筆による「一如」の碑が立っています。また、笠岡グランドホテル内に併設されたワコーミュージアムでは、白印の作品を楽しむことができます。ワコーミュージアムは入館無料で、笠岡ゆかりの芸術家を幅広く紹介しています。

所在地笠岡市笠岡2369-1
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ワコーミュージアム

WakoMuseum

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電話番号086-562-5670
開館時間10:00~17:00
料金無料
所在地笠岡市五番町6-20
休館日月曜日
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木山捷平詩碑

Kiyamashoheishihi

所在地(生家)笠岡市山口742 (図書館)笠岡市六番町1-15 (古城山公園)笠岡市笠岡2369-1
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木山捷平生家

KiyamaShoheiseika

所在地笠岡市山口742
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笠岡市立図書館「木山捷平文学コーナー」

KasaokashilitsutoshokanKiyama

笠岡市立図書館には「木山捷平文学コーナー」があり、自筆原稿や写真、愛用品などが展示されています。また、笠岡市山口には現在も生家が残っています。さらに笠岡市内には、生家、市立図書館前庭、古城山公園の3箇所に木山捷平の詩碑・歌碑があります。

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電話番号086-563-1038
開館時間9:30~18:00/19:00
料金無料
所在地笠岡市六番町1-15
休館日月曜日・祝日・年末年始ほか
関連記事木山捷平

西山拙斎碑

Nishiyamasessaihi

この石碑は、高さ2.6メートル、幅1.06メートルあり、特に「三絶の碑」と呼ばれており、撰文は柴野栗山、篆額は頼春水、碑文は頼杏平で、これら三鴻儒が揃った碑は他に例を見ないものです。その上この建碑を斡旋した人が備後神辺の菅茶山であったことは、拙斎との間柄を示すものとして注目に値します。さらに碑文によれば、近隣よりの会葬者が2,000人にも及んだとあり、拙斎がいかに多くの人々の信望を集めていたかが察せられる貴重な碑です。

所在地浅口市鴨方町鴨方362
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金光教本部

Konkokyohonbu

赤沢文治は、神様からの頼みを受けて農業をやめ、明治16(1883)年に没するまで、自宅で、参拝者の願いを神様に届け、神様の教えを伝えていきました。その教えは、やがて各地に広まり、現在、文治が過ごした金光町大谷には、金光町の本部があります。

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電話番号086-542-3111(代表)
開館時間常時開放
料金無料
所在地浅口市金光町大谷320
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小野家庄屋跡

Onokeshoyaato

大谷村の庄屋であった小野家の屋敷跡です。12歳で大谷村の川手家に養子に入った文治は13歳、14歳の2年間、当時の当主、小野光右衛門から手習いを受けました。小野光右衛門は、天文、暦数などに秀でた学者で、政治家としてもすぐれた人物でした。

開館時間未定
料金無料
所在地浅口市金光町大谷1635
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立教聖場

Rikkyoseijo

現在の建物は昭和8(1933)年に復元されたものですが、もとの建物は、農業を営んでいた頃の赤沢文治が37歳の時に建てた母屋です。文治は、安政6(1859)年に神様の頼みを受けて農業をやめ、自宅であったこの建物で、神様の教えを伝えていきました。

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電話番号086-542-3111
開館時間4:30~18:30
料金無料
所在地浅口市金光町大谷(金光教本部境内)
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金光教祖ご生家

Konkokyogoseika

赤沢文治(金光教祖)は、文化11(1814)年8月16日(新9月29日)に、香取十平、しもの二男として生まれ、12歳で養子に出るまで、生家で過ごしました。生家は文治の長兄が継承し、現在もその子孫にあたる方が生活しています。

電話番号0865-42-2177
開館時間不定
料金無料
所在地浅口市金光町占見646
休館日不定
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洞松寺

Doshoji

精神統一、座禅体験ができる禅寺。洞松寺は横谷に所在する曹洞宗の禅寺。応永19(1412)年に猿掛城主庄氏の帰依を受けた名僧が再興し、室町時代から江戸時代にかけて寺勢を極めました。本堂や山門をはじめとした建物群は、禅宗寺院の典型的な伽藍配置の様相を呈し、町内最大の山門は矢掛町指定重要文化財で、その他の建物群は平成23(2011)年に国の有形登録文化財に指定されました。また、このお寺では一般の人も希望すれば無料で座禅に参加できます(事前に問い合わせください。)

電話番号086-682-0087
所在地小田郡矢掛町横谷3796
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嵐山公園(石井直樹歌碑)

Arashiyamakoen(ishiinaokikahi)

小田川を眼下に望み、矢掛の町並みが一望できる嵐山公園。市街中心部の南に位置し、桜と楓の生い繁る高さ約100mほどの山頂に広がっています。山腹にはジグザグとした遊歩道が設けられていて、春は桜、秋には紅葉を楽しむことができます。特に桜のお花見スポットとして地元では有名。夜には、美しい夜桜が堪能できます。

所在地小田郡矢掛町里山田1022-1
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旧野﨑浜灯明台

Kyunozakihamatoumyodai

この建築は日本式木造灯明台で、野浜と赤崎浜境の入江の埠頭にあり、文久3年(1863)に塩釜明神の御神燈として、また、浜へ出入りする船の夜間照明のための灯台として建てられました。この地は野崎武左衛門が創始した塩田地帯の東端に当たり、かつては野崎浜と呼ばれ、塩の積出しをする船着場になっていました。こうした木造高灯籠形式のものは全国的にも少なく、西洋式灯台に変わる以前の灯台を知ることができる資料として、貴重な遺構となっています。

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野﨑家塩業歴史館

Nozakikeengyorekishikan

江戸時代に塩づくりで成功した野﨑武左衛門が天保4年頃から建てた民家です。約3000坪の敷地には、枯山水の庭園、長さ42mの建物、蔵、茶室、水琴窟があり、国の重要文化財に指定されています。蔵の中などで、昔と今の塩づくりが学べたり、昔の生活道具などが見学できます。予約すれば塩づくり体験もできます。

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電話番号086-472-2001
開館時間9:00~16:30
料金小・中学生300円 大人(高校生以上)500円 土・日・祝は高校生以下無料
所在地倉敷市児島味野1-11-19
休館日月曜日(祝日の場合は翌日)・12月25日~1月1日
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倉敷考古館

Kurashikikokokan

江戸後期に建築された商家の土蔵を改装して開館しました。吉備地方の出土品を中心とした日本の考古資料を収集、展示しています。考古学の調査、研究においても役立っています。また柳並木に生える考古館は美観地区の代表的な景観です。

開館時間3~11月9:00~17:00(入館は16:30まで)12~2月9:00~16:30(入館は16:00まで)
所在地倉敷市中央1-3-13
休館日月・火曜日(祝日開館)・12月29日~1月2日 小・中学生200円・大人400円 (いきいきパスポート利用の場合は付き添い2名まで一人250円)
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旧大原家住宅

Kyuoharakejutaku

倉敷町屋の代表的なものとして国の重要文化財に指定されています。寛政7(1795)年に主屋の建築が着工され、その後座敷部分が増築され、その先には広い庭が続いています。主屋は本瓦葺、厨子二階建てで、屋根は一見入母屋造に見えますが、実際には切妻造りで妻側に付庇を設けた庇付き切妻屋根となっています。また倉敷窓、倉敷格子といった倉敷独特の意匠も備えています。蔵は土蔵造りで、外壁は腰に瓦を張りつけ、目地を白漆喰で盛りあげる『なまこ壁』で仕上げられ、そのコントラストは非常に美しく、倉敷の町並みの景観を特徴づけています。

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マップ内関連記事倉敷の礎を築いた大原孫三郎
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倉敷紡績記念館

Kurashikibousekikinenkan

倉敷紡績創業の明治21(1888)年に、原綿貯蔵用の倉庫として建てられたものです。当初は2棟別々の建物でしたが、明治30年前後の工場増設の際に棟続きに増築され、現在のコの字型平面形になりました。木造煉瓦造の平屋建物で、屋根は寄棟桟瓦葺です。外壁は白漆喰塗で仕上げられており、和風の外観になっていますが、内部はトラス組の小屋組など、西洋の技術が取り入れられています。昭和44年、観光文化施設「倉敷アイビースクエア」を構成する建物の一つとして改装されました。倉敷紡績の歴史を伝える展示施設に生まれ変わり、現在に至っています。

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電話番号086-422-0011
開館時間9:00~17:00(入館は16:45まで)
料金学生500・大人700円
所在地倉敷市本町7-1
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下道氏墓

Shimotsumichinoshinohaka

古代の英傑・吉備真備公ゆかりの地。下道氏の墓は矢掛町東三成に所在する国指定の史跡(指定年月日:1923(大正12).3.7)です。元禄12(1699)年に東三成地内の丘陵地から吉備真備の祖母を火葬にし、その遺骨を納めた銅製骨蔵器が発見され、この地が下道氏の墳墓であることが判明しました。下道氏とは古代における吉備地方の豪族で、『古事記』や『日本書紀』にその名がみえ、「朝臣」の姓を中央から与えられた全国の52氏のうちの1氏でした。元来は大和王権の「西道」をおさえる吉備の権勢とされていたと考えられています。下道氏の墓が発見されたことやその他の遺跡や遺物の痕跡から、この一族が高梁川下流西岸の新本川・小田川の流域を中心に活躍した一族であることが分かりました。また、下道氏出身の学者であり、政治家でもあった真備とその子孫が吉備朝臣として中央貴族になることは著名な歴史的事実です。さて、下道氏の墓からは銅製骨蔵器の他、納骨器や和同開珎などが発見されました。火葬をはじめてから、一定の敷地を定めて一族の人々を埋葬する今日の墓地形式が、奈良時代初期から始まったことを示す貴重な例です。また、近年の調査で銅製骨蔵器を覆っていた外容器が須恵質の大甕であったことが再度確認されました。当時の埋葬の風習を知る手がかりとして重要な役割を示すとともに、銅製骨蔵器に和銅元(708)年の銘がはいっていることから外容器の形の年代を特定でき、土器編年を考慮するうえでも貴重な考古資料といえます。

所在地小田郡矢掛町東三成3803-4
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三島中洲生家跡

Mishimachushuseikaato

二松学舎大学の創設者である三島中洲の誕生地に、思想功績を知ってみらいたい創設者の誕生地として後生に伝えようと、昭和59年に二松学舎大学が石碑をたてました。

所在地倉敷市中島676-24
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旧倉敷天文台スライディングルーフ観測室

Kyukurashikitenmondaislidingroofkansokushitsu

この旧倉敷天文台スライディングルーフ観測室は、大正15(1926)年に原澄治(倉敷市名誉市民)の資力と京都帝国大学教授山本一清の支援により、日本最初の民間天文台として建てられたもので、内部には当時、我が国では最大級となる英国ホルランド社製の口径32cmの天体望遠鏡(倉敷市指定重要文化財)が設置されました。本田實(倉敷市名誉市民)も、この観測室で星の観測を行いました。科学史上においても貴重な建物であることから、平成13(2001)年8月28日に国の登録有形文化財に登録され、本田實生誕100年となる平成25(2013)年に、この観測室を公益財団法人倉敷天文台から譲り受け、創立当時に近い姿で、それまであった中央二丁目19-10から、ライフパーク倉敷に移築・復元を行いました。

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電話番号086-454-0300(倉敷科学センター)
開館時間9:00~17:15
料金無料
所在地倉敷市福田町古新田940
休館日月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
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原澄治・本田實記念館

Harasumiji・Hondaminolukinenkan

倉敷天文台は大正15(1926)年、元倉敷町長である原澄治が「広く一般的に天文知識を普及するため」に創設した日本で一番古い民間の天文台です。本田實は、この天文台に在任中数多くの「新しい星」「新しい彗星」を発見しました。倉敷天文台の歴史と本田實の研究・功績を紹介した記念館で倉敷天文台と同じ敷地内にあります。

電話番号086-422-4589
開館時間月・水・金13:00~17:00(原則)
料金無料
所在地倉敷市中央町2-19-10
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円通寺

Entsuji

寺伝によると、奈良時代に行基によって開基されたとつたえられています。その後、本元禄11(1698)年に徳翁良高禅師によって再興された曹同宗寺院で、代々の住職には名僧多く、特に第十世大忍国仙和尚の代、若き日の良寛和尚が十数年修行された禅寺として全国に広く知られています。石組の庭と葦屋根の荘重な伽藍が配置された境内や隣接する円通寺公園では、桜をはじめ四季折々の花々を楽しむことができます。また、良寛の石像や多くの詩碑・歌碑があります。

電話番号086-522-2444
所在地倉敷市玉島柏島451
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倉敷市大野昭和斎記念資料館

Kurashikishioonoshowasaikinenkan

木工芸の人間国宝大野昭和斎が晩年の10年余りを過ごした旧宅に作品や愛用の品々を展示しています。館内の展示ケースには、玉椿杢目沈金香盒(たまつばきもくめちんきんこうごう)や蔦杢目沈金香盒(つたもくめちんきんこうごうなど6点が展示されています。

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電話番号086-466-2533
開館時間9:00~16:30
料金無料
所在地倉敷市西阿知町1144-12
休館日月~金曜日(祝日以外)・年末年始
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安原備中守供養塔

YasuharabichunokamiKuyoto

石見銀山開発の功労者である安原備中守の供養塔です。早島町塩津の出身だった備中はこの功績によって徳川家康から胴服と扇子を賜わりました。備中守の徳を伝えるために、その子孫が寛永12年に建立したとされる供養塔。

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所在地都窪郡早島町早島124
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高梁基督協会

Takahashikirisutokyokai

高梁基督教会は明治15(1882)年4月に成立した。教会堂は明治22(1889)年9月に建てられ、現存する県内最古の教会堂で、プロテスタントとしては全国でも同志社のチャペルに次いで古い教会堂である。高梁で最初の擬洋風建物で、建物面積は231㎡、愛媛県今治市の吉田伊平により設計、施工された。木造、平屋建、切妻造、桟瓦葺、妻飾りに瓔珞(ようらく)様の板飾りをつけ、壁は下見板張り、ペンキ塗りである。ゴシック様式の窓は上げ下げ窓にし、上に三角形のあかり窓をつけている。基礎は布基礎、正面車寄二階は菱組天井・漆喰塗の軒蛇腹・フルーティングを持つトスカナ式風の二本柱が寄棟の屋根を支えている。鐘楼は県史跡指定の通知を記念し、昭和28(1953)年に旧札幌農学校の時計台を模して付け加えられたものである。実際の指定は昭和34(1959)年になる。県下初の女学校・順正女学校を創設した福西志計子や社会福祉事業家の留岡幸助らを育てた教会でもあります。

電話番号086-622-3311
開館時間8:30~17:30
料金無料
所在地高梁市柿木町
休館日日曜日の午前中は見学不可
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福地のツバキ

Shilochinotsubaki

樹齢は約400年と推定され、目通りは2.3m、樹高は10m、県下の現存ツバキの中でも古い部類に属する。所有者の西林家は、備中神楽(国指定重要無形民俗文化財)の創始といわれている西林要人、号は國橋の生家である。この西林邸では、現在も7年ごとに大神楽が舞納されており、邸前の大ツバキも神楽のツバキとして土地の人々から敬意の念をもってみられている。

所在地高梁市落合町福地3084
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児島虎次郎記念館

Kojimatorajirokinenkan

倉敷アイビースクエア内にある大原美術館の別館で、児島虎次郎室では、大原コレクションに活躍した画家・児島虎次郎の作品を、オリエント室では、児島が収集した古代エジプト美術などを中心にオリエント美術品を展示しています。倉敷紡績の倉庫を改装し、展示室として開館されました。

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電話番号086-422-0005
開館時間9:00~17:00
料金小・中・高500円 大人1300円
所在地倉敷市本町7-1
休館日毎週月曜日(祝日は開館)
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千屋牛資料館

Chiyaushishiryokan

千屋牛の里ゆうゆうセンター内の「和牛レストランふゆさと」に隣接した資料館。裏には千屋牛を飼っている小屋(この施設とは無関係)があります。千屋牛の歴史や、太田辰五郎の肖像画等を観ることができます。

電話番号086-777-2635
開館時間11:00~15:00
料金無料
所在地新見市千屋実1428-1
休館日毎週火曜日、水曜日
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雲居寺

Ungoji

新見藩と関係が深く、藩主である関氏一族(藩主の墓碑は新見の西来寺と東京都港区の瑞聖寺)や家臣、丸川松隠(漢学者)などの墓碑が建立されています。

所在地新見市新見2348
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仁科会館(科学振興仁科財団)

Nishinakaikan(kagakushinkounisinazaidan)

里庄町出身の世界的な物理学者である仁科芳雄博士を顕彰するために、当時の写真や手紙、そして実験装置の模型や展示パネルなどの資料を展示しています。また、次代を担う青少年に科学する心を育むために、科学講演会、ロボットコンテストなどの事業を展開しています。

電話番号0865-64-4888
開館時間9:00~17:00
料金無料
所在地浅口郡里庄町浜中892-1
休館日毎週月曜日及び第3日曜日、年末年始
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仁科芳雄博士生家

Nishinayosiohakaseseika

仁科芳雄博士が高等小学校を卒業するまで過ごした屋敷です。岡山県南に見られる江戸後期の庄屋建築の特長をよく残しています。昭和53年、仁科博士の長兄の子孫から生家の土地屋敷を一括譲り受け、解体修復し、一般に公開しています。

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電話番号0865-64-4528
開館時間10:00~15:00
料金無料
所在地浅口郡里庄町浜中717
休館日月曜日~土曜日、年末年始
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里庄町歴史民俗資料館

Satoshoumachirekishiminzokushiryokan

暮らしの中で伝承されてきた生活用具・民具をはじめ、土師器の系統を継ぐ素朴な素焼き“大原焼き”、“麦稈真田”などが展示されています。また、世界的な物理学者である仁科芳雄博士や鉄道大臣などを歴任した小川郷太郎先生の遺品も一同に展示しています。

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電話番号0865-64-5465
開館時間9:00~16:00
料金無料
所在地浅口郡里庄町新庄2405
休館日毎月第1・第3日曜日のみ開館
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総社吉備路文化館

Sojakibizibunkakan

平成26年4月に開館。文化勲章を受章された、かな書家の高木聖鶴氏の作品を展示した常設展示室、周辺の歴史遺産を解説するガイダンスコーナー、一般利用も可能な展示室があります。展示室では、随時収蔵品を中心とした企画展を実施しています。

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電話番号0866-93-2219
開館時間9:00~17:00(入館は16:30まで)
料金無料
所在地総社市上林1252
休館日月曜日、年末年始

きびじつるの里

Kibizitsurunosato

タンチョウの保護と繁殖を目的にした施設です。国民宿舎サンロード吉備路に隣接しています。野外飼育場やタンチョウについて学べる学びの家(研修棟)などがあります。四季折々の自然を楽しみながら、美しいタンチョウの姿を見ることができます。

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電話番号0866-90-2431
開館時間8:30~17:15(受付は17:00まで)
料金無料
所在地総社市三須825-1

山手郷土館

Yamatekyodokan

山手郷土館は、江戸時代末期に建てられた建物を活用して、江戸時代から昭和へと移り変わっていく生活品を主に展示しています。もともとは種油業を営んだ商家として、旧山陽道に面した母屋と、その奥に庭と平屋、そして土蔵2棟と納屋があります。母屋1階の格子や2階の虫かご窓など、当時の風情が残されています。

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電話番号0866-93-1241(山手公民館)
開館時間9:00~17:00(事前の予約が必要です)
料金無料
所在地総社市岡谷148-1
休館日月曜日、年末年始

埋蔵文化財学習の館

Maizobunkazaigakushunoyakata

埋蔵文化財学習の館では、総社市内で出土した考古遺物(地中に残された昔の人が使っていたさまざまな道具)を保管し、その一部を展示公開しています。展示室では、遺物のほか、鬼ノ城や古代の製鉄遺跡の模型なども見ることができます。

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電話番号0866-93-8071
開館時間9:00~16:00
料金無料
所在地総社市南溝手265-3
休館日土曜、日曜、祝日、年末年始

鬼城山ビジターセンター

Kinozyouzanbizitasenta

古代山城の鬼ノ城のガイダンス施設で、城全体や西門の模型、説明パネルを展示しています。また、鬼城山周辺の恵まれた自然と歴史とのふれあいと、文化財保護と自然学習を進めるための拠点施設でもあります。

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電話番号0866-99-8566
開館時間9:00~17:00(入館は16:30まで)
料金無料
所在地総社市黒尾1101-2
休館日月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始

ベンガラ館

Bengarakan

吹屋地区がベンガラの製造・販売で繁盛していた頃の町の様子やベンガラの製造工程などを知ることができます。

電話番号0866-29-2222
開館時間4月~11月9:00~17:00
料金大人200円・小人100円
所在地高梁市成羽町吹屋86
休館日12月29日~12月31日

倉敷民芸館

KurashikiMingeikan

倉敷の代表的な米倉を改装した建物です。館内には日本の民芸品を中心に世界の民芸品、焼き物、染め織物、ガラス、かごなど約800点を陳列しています。それらは、日常生活の中でなに気なく使われている日用品が素朴で健康的な美しさをもつことを教えてくれます。

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電話番号086-422-1637
開館時間3月~11月9:00~17:00(入館は16:45まで) 12月~2月9:00~16:15(入館は16:00まで)
料金小・中学生300円 大人700円(いきいきパスポート利用の場合は付き添い2名まで一人400円)
所在地倉敷市中央1-4-11
休館日月曜日(祝日開館)12月29日~1月2日

大原美術館

Tamashimaminatobashifukin

昭和5年、大原孫三郎によって建てられた美術館で、エル・グレコ、モネ、ルノワール、マティス、ピカソなどの作品を本館に展示しています。ひときわ目を引くギリシャ神殿風の本館建物は倉敷美観地区の中心となっています。本館の他にも、日本の近代美術などを展示する分館、工芸・東洋館、また倉敷アイビースクエア構内の児島虎次郎記念館があります。

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電話番号086-422-0005
開館時間9:00~17:00(入館は16:30まで)
料金小・中学生500円 大人1300円(いきいきパスポート利用の場合は付き添い2名まで一人1100円)
所在地倉敷市中央1-1-15
休館日月曜日(祝日開館)12月28日~12月31日(夏休み、10月は月曜日も開館)
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笠岡市井笠鉄道記念館

KasaokashiIkasaTetsudoKinenkan

昭和56(1981)年に、井笠鉄道株式会社によって設立された井笠鉄道記念館を,平成26(2014)年3月に笠岡市が引き継ぎ開館しました。旧新山駅舎を利用した展示室のほか,屋外には1号機関車,客車,貨物車などが展示されており,軽便鉄道の時代をしのぶことができます。

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電話番号0865-69-2155
開館時間9:00~17:00
料金無料
所在地笠岡市山口1458-7
休館日月曜日(祝日の時は開館し、翌日が休館)

笠岡市立竹喬美術館

KasaokaShiritsuTikkyoBijutsukan

笠岡市出身の日本画家,小野竹喬(おのちっきょう)の偉大な業績を称え,その功績を永く後世に伝承するために,昭和57年(1982)年10月に開館しました。平成13(2001)年3月には新館が開館し,竹喬芸術の殿堂として,また岡山県南西部の中核となる美術館として,一層その重責を果たそうとしています。

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電話番号0865-63-3967
開館時間9:30~17:00
料金小・中学生150円 高校生300円 一般500円(65歳以上無料)
所在地笠岡市六番町1-17
休館日月曜日(祝日の時は開館し、翌日が休館),国民の祝日の翌日,陳列替期間中
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笠岡市立郷土館

KasaokaShiritsuKyodokan

市内の考古・民俗資料を展示しています。大飛島から出土した奈良三彩の小つぼ,和銅開珎(わどうかいちん),唐花文六花鏡,また笠岡湾干拓地の工事で発見された銅戈(どうか)などの資料は全国的にも非常に貴重です

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電話番号0865-69-2155
開館時間9:00~17:00
料金小中学生20円 一般50円(65歳以上無料)
所在地笠岡市笠岡5628-10
休館日月曜日(祝日の時は開館し、翌日が休館),国民の祝日の翌日,陳列替期間中

阿藤伯海記念公園

AtoHakumiKinenKoen

昭和の偉大な漢詩人「阿藤伯海」を顕彰する公園です。修復した生家を中心に、吉備真備を顕彰した絶筆の詩碑を有する「記念広場」、古代の蓮として知られる大賀蓮が植わる「蓮池」、遙照山系を望み広く展望の開けた梅園「流芳の丘」を整備しています。

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電話番号0865-44-9255
開館時間9:00~17:00
料金一般100円 小・中学生50円
所在地浅口市鴨方町六条院東2385
休館日毎週月曜日、火曜日、祝日
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芳井歴史民俗資料館

YoshiiRekishiMinzokuShiryokan

旧芳井町内を中心に数多く残る歴史資料の保存・展示を行うほか、雪舟・阪谷朗廬・内山完造など井原市ゆかりの偉人をわかりやすく展示しています。また、年に1回開催される特別展と企画展では、井原市の人物や歴史などをテーマにユニークな展示を行っています。

電話番号0866-72-1324
開館時間9:00~17:00
料金無料
所在地井原市芳井町吉井4110-1
休館日月曜日・木曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始
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文化財センター 「古代まほろば館」

BunkazaiCenter「KodaiMahorobaKan」

井原市内の遺跡で出土した埋蔵文化財を中心とした常設展示のほか、テーマをもった企画展を開催し、文化財をわかりやすく紹介しています。また、さまざまな体験講座、文化財めぐりなどを開催し、井原市の歴史をわかりやすく学習できる施設です。

電話番号0866-63-3144
開館時間9:00~16:30
料金無料
所在地井原市井原町333-1
休館日月曜日(祝日又は振替休日のときはその翌日)

田中美術館

DenchuBijutsukan

井原市出身の近代彫刻界の巨匠・平櫛田中の作品を中心に田中との関係の深い日本美術院の作家や平櫛田中賞受賞作家の作品を展示しています。また、3階には、田中が数々の名作を作り出した東京上野桜木町のアトリエを再現し、当時のおもかげを偲ばせています。

電話番号0866-62-8787
開館時間9:00~17:00
料金一般:400円 小中高生及び65歳以上の高齢者、優待者:無料
所在地井原市井原町315
休館日月曜日(祝日又は振替休日のときはその翌日)
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やかげ郷土美術館

Yakagekyodobijutsukan

歴史と文化の薫る町・矢掛は国指定重要文化財の本陣・脇本陣が旧姿をとどめ、その町並みと調和するように町屋風な美術館として、平成2年11月に開館しました。町木の赤松を使い太い梁を生かした伝統工法による建物は木の温もりを感じさせ、心和む空間となっています。

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開館時間10:00~17:00
料金一般200円 中・高生100円 小学生50円
休館日月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始、展示替え期間
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真備ふるさと歴史館

MabiHurusatoRekishikan

江戸時代真備地区を治めていた岡田藩の古文書を公開しています。当時の藩の様子や村人のくらし、災害を防ぐ工夫など先人の足跡にふれることができる施設です。また、真備地区ゆかりの推理作家、横溝正史の資料を展示する「横溝正史コーナー」も設けています。

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電話番号086-698-8433
開館時間10:00~16:00
料金無料
所在地倉敷市真備町岡田610
休館日月・木・金曜日
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真備歴史民俗資料館

MabiRekishiMinzokuShiryokan

真備地区に残された遺跡、遺物から古代の様相を展示する「大昔の人々が残したもの」と、ひと昔前の農具・生活用具を展示する「おばあさんおじいさんのくらし」の二つで構成された資料館です。

電話番号086-698-9393
開館時間10:00~18:00
料金無料
所在地倉敷市真備町箭田47-1(真備図書館内)
休館日月曜日

横溝正史疎開宅

YokomizoMasashiSokaitaku

推理小説作家としてたいへん有名な横溝正史とその一家は昭和20年はじめ、東京から当時の岡田村・桜に疎開してきました。横溝正史はこの地で足かけ4年過ごし、その間に日本初の本格推理小説を書きたいと構想を温めました。名作「本陣殺人事件」と金田一耕助はこの家で誕生しました。

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電話番号086-698-8558
開館時間10:00~16:00
所在地倉敷市真備町岡田1546
休館日月・木・金曜日
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まきび記念館

MakibiKinenkan

奈良時代、遣唐使として活躍し、日本の文化の発展のために力を尽くした吉備真備の業績をたたえ、まきび公園内に昭和63年に開館しました。建物は、四隅がぐんと反り上がった屋根を朱塗りの柱が支える構造で、中国情緒を漂わせています。展示室では、写真やパネルなどで吉備真備に関する歴史を紹介しています。

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電話番号086-698-7621
開館時間10:00~16:00
料金無料
所在地倉敷市真備町箭田3652-1
休館日月曜日(祝日の時は開館し、翌日が休館)
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旧柚木家住宅(西爽亭)

KyuyunokikeJutaku(Saisotei)

西爽亭と呼ばれ親しまれている旧柚木家住宅は、江戸時代中期の庄屋建築の遺構を残す建物です。西爽亭は、かつて備中松山藩に仕え、庄屋を務めた柚木家の住宅で、御成門・湯殿・便所等が残されており、当時の様子を知ることができます。

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電話番号086-522-0151
開館時間9:00~17:00
料金無料
所在地倉敷市玉島3丁目8-25
休館日月曜日(祝日の時は開館し、翌日が休館)

顕彰記念室(池田遙邨・坂田一男)

KenshoKinenshitsu(IkedaYoson・SakataKazuo)

玉島にゆかりのある日本画家・池田遙邨と洋画家・坂田一男の業績を紹介する展示室です。ここでは二人の生涯をパネル解説で、主な作品や作家の言葉をモニター映像で見ることができます。また、愛用していた筆やパレットなどの貴重な資料も展示しています。

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電話番号086-526-1400
開館時間9:00~22:00
料金無料
所在地倉敷市玉島阿賀崎1-10-1(玉島市民交流センター内)
休館日5・8・11・2月の最終月曜日
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クルクルセンター

KurukuruCenter

ごみ減量とリサイクルの推進を呼びかけていくために平成16年に造られました。館内にはリサイクルに関する展示物がたくさんあります。館外には廃食用油をリサイクルしてバイオディーゼル燃料(BDF)を作る設備があります。また、ごみ減量・リサイクルをテーマにした講座も行っています。

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電話番号086-470-6681
開館時間9:00~17:15
料金無料
所在地倉敷市児島小川町3697-4
休館日月曜日(祝日の場合は翌日)

ビジターセンター(鷲羽山)

BijitaeCenter(Washuzan)

このビジターセンターは、鷲羽山を訪れる人々が、瀬戸内海国立公園の自然を楽しむとともに自然のしくみや、自然と人とのかかわりを正しく理解できるよう、いろいろな展示がされています。(鷲羽山の自然と歴史コーナー、瀬戸大橋コーナーなど)

電話番号086-479-8660
開館時間(4月1日~9月30日)9:00~17:00
料金無料
所在地倉敷市下津井田之浦1-2
休館日年末年始

薄田泣菫生家

SusukidaKyukinSeika

薄田泣菫は、明治30年から40年にかけてすばらしい詩を数多く発表し、大正時代以降は随筆の分野で多くの読者を魅了しました。泣菫が生活していたこの家には、彼の詩集・原稿(複製)などが展示されています。

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電話番号086-446-4830
開館時間9:00~16:30
料金無料
所在地倉敷市連島町連島1284
休館日月曜日
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福田歴史民俗資料館

HukudaRekishiMinzokuShiryokan

農具などを中心とした地域の民俗資料を保存・展示しています。ひと昔前の農家の生活や農耕の様子を知ることが出来ます。

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電話番号086-455-9253
開館時間9:00~16:00
料金無料
所在地倉敷市福田町古新田1209-1
休館日月・木・金曜日(月・木・金が祝日の時は開館し、翌日が休館)

埋蔵文化財センター

MaizoBunkazaiCenter

大むかしの倉敷はどんなだったのだろう?そんなことを考えたことはないですか。埋蔵文化財センターには、弥生時代の人が住んでいた家の復元模型や、発掘調査で発見された土器や石器を展示しています。また、土器の復元を体験できるパズルなどもあり、大むかしの様子を楽しみながら学習することができます。

電話番号086-454-0600
開館時間9:00~17:15
料金無料
所在地倉敷市福田町古新田940
休館日月曜日(祝日の場合は翌日)

歴史民俗資料館

RekishiMinzokuShiryokan

建物は大正4年に倉敷幼稚園の園舎として建てられました。当時としては、珍しい八角形の遊戯室のある建物を残すため、この地に資料館として生まれかわりました。幕末から現代までの教科書や、学校で昔使われた道具などを展示しています。

電話番号086-422-7239
開館時間9:00~16:00
料金無料
所在地倉敷市西中新田669
休館日月曜日(祝日の時は開館し、翌日が休館)

磯崎眠亀記念館

IsozakiMinkiKinenkan

磯崎眠亀は天保5年(1834)茶屋町に生まれました。発明の才に富んだ彼は、様々な発明をしましたが、その1つが郷土特産のイ草を使った錦莞莚(花莚)です。明治時代に数多く輸出され、海外でたいへん好評を博しました。国の登録有形文化財である現在の記念館(旧住宅兼研究所)にも奇抜な発想がしのばれます。

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電話番号086-428-8515
開館時間9:00~16:30
料金無料
所在地倉敷市茶屋町195
休館日月曜日(祝日の時は開館し、翌日が休館)
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大山名人記念館

OoyamaMeijinKinenkan

大山康晴名人は西阿知町に生まれ、5才のころから将棋をおぼえ、12才で将棋の道に入り、人一倍の努力により将棋界のナンバーワンになり、114回も優勝しました。優勝カップや写真を展示しています。写真の和室では、小・中学生の将棋教室などが行われています。

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電話番号086-434-0003
開館時間9:00~17:15
料金無料
所在地倉敷市中央1-18-1
休館日水曜日(祝日の場合は翌日)
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早島町戸川家記念館

Hayashimachotogawakekinenkan

戸川家陣屋跡の書物蔵を改修した館内には、旗本戸川家の代々受け継がれてきた歴史資料が展示されています。町指定史跡の陣屋跡には、石橋や堀の一部も残されています。

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開館時間10:00~16:00
所在地早島町早島1292
休館日月~土曜日(祝日の場合は開館)
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早島町伝統工芸伝承館(花ござ伝承館)

HayashimachoDentokogeiDenshokan(HanagozaDenshokan)

花ござや中継表の手織り技術の保存と敬称を図るため、毎週火曜日と金曜日の午後「花ござ手織り技術保存会」により、手織りの実演が行われています。また、ミニ機による手織り体験もできます。※要予約

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電話番号086-482-1512(早島町中央公民館)
開館時間13:30~15:30
所在地早島町前潟240
休館日月・水・木・土・日曜日
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高梁商家資料館 無料休憩所

TakahashishokashiryokanMuryokyusokujo

城下町の町人地区にあたる高梁市本町に位置し、高瀬舟の船主、醤油製造販売で財を成した高梁屈指の豪商・池上家の邸宅です。現在は無料休憩所として公開されています。

電話番号0866-21-0229
開館時間10:00~16:00
料金無料
所在地高梁市本町94
休館日12月28日~1月3日

武家屋敷 旧折井家

Bukeyashikikyuoriike

石火矢町ふるさと村の中にある現存する武家屋敷です。旧折井家は、江戸時代後期に、160石取りで、馬回り役を務めた武士の旧宅であり、漆喰壁の格式が漂っています。庭に面して資料館があり、備中松山藩ゆかりの甲冑などが展示されています。

電話番号0866-22-1480
開館時間9:00~17:00
料金大人400円・小中学生200円(武家屋敷旧埴原家と共通)
所在地高梁市石火矢町23-2
休館日12月29日~1月3日

武家屋敷 旧埴原家

Bukeyashikikyuueharatei

石火矢町ふるさと村の中にある現存する武家屋敷です。旧埴原家は、江戸時代中期から後期にかけて、120~150石取りで、近習役や番頭役を務めた武士の旧宅であり、寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい建築であり、市の重要文化財に指定されています。

電話番号0866-23-1330
開館時間9:00~17:00
料金大人400円・小中学生200円(武家屋敷旧折井家と共通)
所在地高梁市石火矢町27
休館日12月29日~1月3日

方谷の里ふれあいセンター

Hokokunosatohureaicenter

センターの位置する高梁市中井町は、幕末の備中松山藩の藩政改革を行い理財者であるとともに師弟教育に尽くし教育者として知られる山田方谷の生誕地であり、方谷ゆかりの資料を展示しています。またセンターの近くには、方谷のお墓があり、方谷園として整備されています。

電話番号086-628-2001
開館時間平日8:30~17:00 日曜日9:00~16:00
料金無料
所在地高梁市中井町西方3158
休館日土曜日・祝日・年末年始
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吉備川上ふれあい漫画美術館

Kibikawakamihureaimangabijutsukan

名誉館長の富永一郎氏の作品をはじめ、国内外の漫画12万冊が収蔵されています。

電話番号0866-48-3664
開館時間9:00~17:00
料金小中学生200円 高大学生300円 大人400円
所在地高梁市川上町地頭1834
休館日金曜日(祝日の場合は翌日)

景年記念館

Keinenkinenkan

高梁市備中町出身の書家川上景年(かわかみけいねん)の業績を顕彰する記念館です。700点に上る所蔵作品のなかから毎年展示替えを行い、常時約20点の作品を展示しています。

電話番号0866-45-3721
開館時間10:00~15:00
料金大人300円・小人150円
所在地高梁市備中町布賀3543-3
休館日月・水曜日

旧片山家住宅

Kyukatayamakejutaku

片山家はベンガラ製造と販売で財を成しました。旧片山家住宅は、江戸時代後期に建築され、ベンガラ屋としての店構えを残す主屋とベンガラ製造に関わる付属屋が敷地内に立ち並んでおり、「近世弁柄商家の典型」として国の重要文化財に指定されています。

電話番号0866-29-2222
開館時間4月~11月9:00~17:00 12月~3月10:00~16:00
所在地高梁市成羽町吹屋367
休館日12月29日~12月31日 大人400円・小人200円(吹屋ふるさと村郷土館と共通)

清水比庵記念室(高梁総合文化会館)

Shimizuhiankinenshitsu(Takahashisogobunkakaikan)

高梁市出身で、栃木県日光町長を務め、晩年は書・画家として独特な境地を開き、愛好者が多い清水比庵の作品を展示しています。

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電話番号0866-22-1040
開館時間9:00~17:00
料金無料
所在地高梁市原田北町1212
休館日火曜日(祝日の場合は翌日)12月28日~1月4日国民の祝日の翌日
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鯉が窪湿原 及び 鯉が窪湿原資料館

KoigakuboshitsugenoyobiKoigakuboshitsugenshiryokan

湿地面積3.6haの湿原にはオグラセンノウなどの希少植物や、寒地性植物のリュウキンカなどのほか、我が国固有の植物などが200種以上自生し、「西の尾瀬沼」とも言われています。これら植物は国天然記念物「鯉ヶ窪湿生植物群落」として指定されています。

電話番号0867-94-2347
開館時間9:00~17:00
料金無料(別途、湿原保護協力金あり)
所在地新見市哲西町矢田4113-101
休館日11月~4月中旬

御殿町センター

Gotenmachicenter

外観は商家の蔵をイメージし、館内には旧新見藩主関家にまつわる資料を展示しています。「御殿町づくり」事業のシンボル施設として建てられました。

開館時間9:00~17:00
料金無料
所在地新見市新見858
休館日日曜日・祝日

太池邸

Taiketei

近代新見地域の商業の中心地として栄えた中町界隈にあって、その中核的な商家の一つです。明治時代末期の建物で、新見初の百貨店として呉服をはじめ色々な商品を扱っていました。現在は、邸内でイベントを行うなど交流拠点施設として利用されています。

電話番号0867-72-6660
開館時間10:00~16:00
料金無料
所在地新見市新見851
休館日月・水・金・日曜日

山田方谷記念館

YamadaHokokuKinenkan

幕末の陽明学者、藩政政治家、また教育者として活躍した山田方谷の偉業を讃えるため、残存する書籍又は資料等を展示しています。方谷の生き方にふさわしい「誠実・勤勉・清貧・謙譲などの心」を学ぶことができます。

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電話番号0867-98-4059
開館時間10:00~16:00
料金小~高校生無料 一般300円
所在地新見市大佐小南323-3
休館日月・火曜日(祝日の場合は翌日)国民の祝日の翌日※3月25日~4月10日,4月27日~5月10日,7月15日~8月31日の期間は無休
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新見市法曽陶芸館(猪風来美術館)

NiimishiHosoTogeikan(Ifuraibijutsukan)

猪風来氏の代表的縄文野焼き作品をはじめ、スペインラスター彩の陶オブジェや草木染め手織り作品などを多数展示しています。「法曽焼展示コーナー」にはこの地に伝わる法曽焼の古窯発掘陶磁器片や江戸時代の水甕、新たに復活した法曽焼穴窯作品等があります。

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電話番号0867-75-2444
開館時間9:30~17:00
料金小・中学生は無料 高校生200円 一般400円
所在地新見市法曽609
休館日月曜日(祝日の場合は翌日、12月~2月は月・火曜日)

笠岡市立カブトガニ博物館

Kasaokashiritsukabutoganihakubutsukan

「生きている化石」カブトガニのはい跡の化石やレプリカ,生態の説明が展示の中心です。 大水槽では,カブトガニの成体や幼生を見ることができます。シアターでは,映像でカブトガニや生物の進化を解りやすく解説しています。館外には,恐竜公園(無料)があります。

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電話番号0865-67-2477
開館時間9:30~17:00
料金小・中学生210円 高校生310円 一般520円(65歳以上無料)
所在地笠岡市横島1946-2
休館日月曜日(祝日の時は開館し、翌日が休館)国民の祝日の翌日※3月25日~4月10日,4月27日~5月10日,7月15日~8月31日の期間は無休

岡山天文博物館

Okayamatenmonhakubutsukan

岡山天文博物館は、昭和35(1960)年11月岡山県南西部、浅口郡鴨方町と小田郡矢掛町にまたがる竹林寺山の一角(標高約350m)に隣接する国立天文台岡山天体物理観測所の施設施設の構造・機能や研究等をはじめ、一般的な天文学の普及を目的に開館した。この地は古くから観測適地として知られており、国立天文台岡山天体物理観測所が所有する国内最大級の188cm反射防炎用を持つ天文台が設置されている。今後、京都大学がこの地にアジア最大級の大きさと世界一の技術を兼ね備えた3.8メートルの反射望遠鏡を持つ天文台を建設する予定である。

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電話番号0865-44-2465
開館時間9:00~16:30
料金一般100円、小・中学生50円(プラネタリウム別途)
所在地浅口市鴨方町本庄3037-5
休館日毎週月曜日(祝日・振替休日の場合はその翌日)、祝日の翌日、連休の場合はその翌日翌々日
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美星天文台

Biseitenmondai

一般公開用では中国地方最大級の101cm望遠鏡と、光害防止条例に守られた星空環境によって、誰でも気軽に、美しい星空とバラエティーに富んだ天体の姿を観察できます。昼間は施設見学のほか、晴天時は太陽の拡大映像や、望遠鏡で青空の中の星(午後のみ)が観察できます。

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電話番号0866-87-4222
開館時間昼9:30~16:00 夜18:00~22:00(金土日月曜日)
料金小学生以上300円 65歳以上240円 団体等割引有
所在地井原市美星町大倉1723-70
休館日木曜日、祝日の翌日、年末年始
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玉島歴史民俗海洋資料室

Tamashimarekishiminzokukaiyoshiryoshitsu

海とともに暮らし、発展してきた玉島の街の歴史や民俗に関する資料や情報を集めた展示室です。亀山焼や麦稈真田などの実物をはじめ、玉島風景図巻や乙島祭りに関する映像、千石船の1/10模型など郷土の歴史や民俗を知るうえで欠かせない資料の数々が並んでいます。

電話番号086-526-1400
開館時間9:00~22:00
料金無料
所在地倉敷市玉島阿賀崎1-10-1(玉島市民交流センター内)
休館日5・8・11・2月の第4月曜日(祭日の場合は翌日へ振替)

むかし下津井回船問屋

Mukashi shimotsui kaisentonya

今に残る廻船問屋の建物をできるだけ当時に近いかたちで復元したものです。北海道でとれた、ニシン粕、こんぶなどを満載して、日本海の荒波を越えてきた北前船によってもたらされた、にぎわいのあったむかしの下津井にまつわるさまざまな資料を展示しています。

電話番号086-479-7890
開館時間9:00~17:00
料金無料
所在地倉敷市下津井1-7-23
休館日火曜日(祝日の場合は翌日)

倉敷科学センター

Kurashikikagakusentar

科学に関する展示物やプラネタリウムがあり、体験を通して楽しみながら科学に親しむことができます
・展示内容:体験を通して科学を学べる展示が約100点
・宇宙劇場:プラネタリウムや全天周映画で宇宙の不思議を体験
・各種科学講座:科学実験・工作教室や天体観望会等

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電話番号086-454-0300
開館時間9:00~17:15
料金[小学生~高校生] 展示室100円 プラネタリウム210円全天周映画210円 [大人] 展示室410円プラネタリウム410円 全天周映画410円
所在地倉敷市福田町古新田940
休館日月曜日(祝日の場合は翌日)

倉敷市立美術館

Kurashikishiritsubijutsukan

倉敷市の名誉市民の画家、池田遙邨の作品をはじめ、岡山ゆかりの作家の作品が1万点以上あります。むかし市役所として使われていた建物は、世界的建築家・丹下健三の設計で、今でも多くの人が見学に来ます。

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電話番号086-425-6034
開館時間9:00~17:15
料金小・中学生は50円 高校生・大学生100円 一般210円
所在地倉敷市中央2-6-1
休館日月曜日(祝日または振替休日の時は、その翌日)
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自然史博物館

Shizenshihakubutsukan

岩石や化石、植物、昆虫、動物の標本など約12,000点の資料を展示して、岡山県の自然をわかりやすく説明しています。見るだけでなく標本に直接触れることもできます。また、学芸員による講座や、野外での自然観察会なども実施しています。

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電話番号086-425-6037
開館時間9:00~17:15
料金大学生50円 一般150円(高校生以下、65歳以上無料)
所在地倉敷市中央2-6-1
休館日月曜日(祝日または振替休日の時は、その翌日)

早島町歴史民俗資料館

Hayashimachorekishiminzoku

早島町の伝統的産業であるい草とい草製品に関する資料や道具を見ながら、その歴史を学ぶことができます。※見学ご希望の際は事前にお問い合わせください。

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電話番号086-482-1511(町役場生涯学習課)
開館時間9:00~17:00
料金小学生150円 中高生300円 一般400円
所在地早島町前潟237
休館日月曜日

備中郷土館

Bichukyodokan

高梁市備中地域の農村文化の歴史を中心に保存展示する民俗資料館です。昔懐かしい農耕機具等をご覧いただけるとともに、彫刻家 宮本隆の作品等もご紹介しています(予定)。

電話番号0866-45-9850
開館時間10:00~15:00
料金無料
所在地高梁市備中町布賀3535
休館日月・水曜日国民の祝日の翌日※3月25日~4月10日,4月27日~5月10日,7月15日~8月31日の期間は無休

高梁市成羽美術館

Takahashinariwabijutsukan

高梁市成羽地域出身の画家・児島虎次郎の絵画を中心に、児島が外遊中に収集した古代エジプト遺品や成羽地域産出の植物化石などを展示しています。建築家安藤忠雄氏による建物も見所の一つです。

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電話番号0866-42-4455
開館時間9:30~17:00(16:30まで受付)
料金一般500円 高大学生300円 小中学生200円
所在地高梁市成羽町下原1068-3
休館日月曜日(祝日の場合は翌日)
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高梁市郷土資料館

Takahashikyodoshiryokan

明治37年に建築された、旧高梁尋常高等小学校の本館を活用した資料館で、建物は市の重要文化財に指定されています。江戸から昭和にかけての生活用具や農耕機具などを展示しています。

電話番号0866-22-1479
開館時間9:00~17:00
料金大人300円・小中学生150円
所在地高梁市向町21
休館日12月29日~1月3日
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歴史美術館(文化交流館)

Rekishibijutsukan(bunkakoryukan)

高梁の歴史資料やゆかりの芸術家の作品を収蔵した美術館です。常設展では、備中松山城の歴史や歴代城主などの歴史を展示しています。また、特別展等随時開催しています。

電話番号0866-21-0180
開館時間9:00~17:00(16:30まで受付)
料金大人300円・小中学生150円
所在地高梁市原田北町1203-1
休館日火曜日(祝日の場合は翌日)12月28日~1月4日
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新見美術館

Niimibijutsukan

年間を通して、さまざまな企画展を行っている新見美術館内から臨む風景です。館敷地内の枯山水庭園や新見の市街地を一望することができます。秋頃(11月上旬~中旬)の枯山水庭園の紅葉はとても綺麗です。また、新見市の春の桜など四季折々の風景を眺めることができます。

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電話番号0867-72-7851
開館時間9:30~17:00
料金小学生150円 中高生300円 一般400円 "
所在地新見市西方361
休館日月曜日(祝日の場合は翌日)、展示替期間中

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高梁川流域MAP

Takahashirivermap

吉備真備公園

Kibimabikoen

小田川流域の矢掛町から倉敷市真備町にわたる一帯は古来より吉備真備(きびのまび)ゆかりの地として知られている。矢掛町では真備公の遺徳を偲んで、昭和63(1988)年、吉備公館址に隣接する丘に吉備真備公園を新たに整備した。吉備真備は、高梁川以西を拠点とした下道氏(しもつみちし)の出自で、奈良時代(約1300年前)に活躍した歴史上実在の人物。下道氏とは古代豪族吉備一族の中で最も栄えた氏族で、公園西方の丘陵地から真備の父である下道関勝(しもつみちのくにかつ)の母の遺骨を納めた骨蔵器(こつぞうき)が発見され、この地が下道氏の墓所であることが明らかになった。公園周辺には、吉備真備の産湯(うぶゆ)の井戸などがいい伝えられ、また、真備が唐の都から持ち帰った文物の一つである囲碁に因み、この地を「囲碁発祥の地」として顕彰している。この公園は地元町民の協力で美しく保たれ、平成19(2007)年には日本の歴史公園100選にも選ばれている。また、公園の一画には、美味しいうどんが食べられる館祉亭もある。ぜひ散策にお越し願いたい。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.22
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かもがた町家公園

Kamogatamachiyakoen

町家2棟、土蔵3棟を忠実に修復した江戸時代の歴史的建築物と伝統植物園を合わせもつ公園です。園内には県内で最も古い築後300年以上を誇る町家「旧高戸家住宅」(県指定重要文化財)があり、2006年に「日本の歴史公園100選」に認定されました。

電話番号0865-45-8040
開館時間9:00~17:00(入館16:30まで)
料金一般100円 小・中学生50円
所在地浅口市鴨方町鴨方240
参考文献流域パスポート
休館日毎週月曜日(祝日は営業)、祝日の翌日

やかげポケット水族館

Yakagepokettosuizokukan

やかげポケット水族館は、平成13(2001)年にやかげ郷土美術館の一角にオープンした。高梁川の支流の一つである小田川等に生息する淡水魚を大小12基の水槽に展示している。小田川の本流を模して造られた大きなパノラマ水槽では、鯉やフナなどがゆったりと泳ぐ、様子を観察することができ、小さい水槽には絶滅危慎種に指定されているスイゲンゼ二タナゴをはじめとする貴重な魚も展示されている。近年、水質の悪化や環境破壊により、身近に観察することができなくなった魚を自の前で見ることができるということで、近隣の小学生や親子連れ、淡水魚の愛好家などが頻繁に訪れている(水族館のみの見学は無料)。また、この水族館は、県立矢掛高等学校の生徒がボランティアで水槽の清掃や水替え、魚の補給等の管理に当たっており、次世代を担う若者たちが、環境について学ぶ大切な場にもなっている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.6

宇内ホタル公園

Unaihotarukoen

矢掛町の宇内地区では、毎年初夏(6月上旬)にホタルが乱舞する。この時期に合わせて、「宇内ホタル観賞旬間」が設けられ、毎年岡山県内外から多くの観光客が訪れている。宇内地区は首からゲンジボタルの群生息地として知られていたが、昭和50年代から農薬の使用や家庭雑排水の河川への流入などにより、ホタルが減少傾向になった。このため、地元住民が、昔から親しまれてきたホタルを守り育てるため、昭和59(1984)年3月に自治会、消防団、婦人会、子ども会等で構成する「宇内ホタルを守り育てる会」を結成し、保護育成の一環として、同年からホタルの養殖をスタートした。昭和60(1985)年には保護活動の拠点として星田川の清流沿いに「宇内ホタル公園」同63(1988)年には「ホタル養殖施設」が完成し、毎年10万匹の幼虫を放流している。また、環境保全活動として河JIの清掃も定期的に行われている。このような住民たちの努力により守り育てられているホタルは毎年多くの人を魅了している。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.5

そうじゃ水辺の楽校

Sojamizubenogakko

水辺の楽校とは、国土交通省が子どもたちの水辺での遊びや、自然体験を豊かにしてもらおうという目的で進めているプロジェクトである。「そうじゃ水辺の楽校」は、平成13(2001)年1月にそのプロジェクトに登録され、約2年の歳月をかけて整備された。場所は総社大橋から下流約印刷までの間の高梁川右岸側の河川敷、広さは約35haで、水辺の楽校としては全国屈指の規模を誇る。中心は、ワンドと呼ばれる入り江のようなものや、カヌー用の水路とデッキ、遊水路、芝生広場、木橋などがある上流部である。カヌー水路は幅が約6mから10m、美しいS字曲線の約350mの距離で、たくさんの子どもたちが力ヌーを楽しんでいる。また、水辺の楽校内の約9割は元の自然がそのまま残り、総延長約5kmに及ぶ散策道の途中では、心なごむ景色を楽しむことができる。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.5

砂川公園

Sunagawakoen

温羅(うら)伝説の舞台でもある鬼城山の山裾を西から東南に流れる砂川に、自然を生かして整備された河川公園。もともと総社市の砂川周辺は、水と緑に恵まれた土地でそこに水や森に親しめる施設が平成7(1995)年に設けられた。橋や歩道を整え、バンガロー風の炊事棟やシャワー、トイレが完備されたキャンプ場のほか、ウォータースライダーなどの親水施設もあり、幅広い世代に人気を得ている。特に、夏休みのシーズンなどには、公園内はキャンプやバーベキューなどを楽しむ人や、ウォータースライダーで無邪気に遊ぶ子どもたちでにぎわう。また、夏だけでなく、初夏にはショウブ、秋には公圏内にある観光柿園での柿狩りなど、どの季節でも自然変満喫することができ、四季を通じて楽しむことができる公園である。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.4

栄橋

Sakaebashi

栄橋は旧山陽道沿いにあり、昭和29(1954)年の町村合併前の矢掛町西町と小林村、川面村の境に位置し、橋の名の由来も一説にはここからきていると考えられている。栄橋は小田川・墨田川・美山川の3本の河川の合流地点にあり、自然堤防が発達した地形を利用して、江戸時代末期に木橋が架けられた。平常時には川の流水量が少なく、橋が架けられる以前は「高通徒渡(たかとおりかちわた)し」(高通は旧川面村の地名)と呼ばれ、人々は徒歩で)川を渡っていた。そのため、大水ともなれば川を渡ることができず、旧矢掛本陣石井家には、長州女中衆が川止めにあった記録が残されている。その後、常時通行できる木橋が明治・大正・昭和初期まで利用されていたが、洪水で度々流失したため、昭和14(1939)年に鉄筋のトラス橋の栄橋が架橋された。さらに小田川沿いの矢掛バイパスが同46(1971)年に開通する際には、新たな橋がこの路線沿いに設けられ、これが現在自動車の通行している新栄橋である。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.11

方谷橋

Hokokubashi

大正3(1914)年頃に高梁市本町から高梁市落合町近似を結ぶために高梁川にかけられた方谷橋を撮影。橋の名称は漢学者で備中松山藩士の山田方谷(1805~1877)に由来する。近似側には方谷林公園も設置されている。江戸時代、備中松山城下を流れる高梁川には橋が架けられていなかった。川を渡るためには舟を利用しており、方谷橋の位置に舟渡しがあったことが江戸時代の城下図で確認することができる。大正3(1914)年に木造の橋が建造されたが、昭和9(1934)年の室戸台風来襲による水害で流出した。現在の方谷橋は昭和12(1937)年に完成したランガー形式のアーチ橋である。現存する戦前に造られたランガ一橋は全国で10基、そのうち、2基が高梁川で見ることができる(もう一つは高梁市川面町田井の田井橋)。高梁市内の近代化遺産の一つとしても評価を受けている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.11

汐入川

Shioirigawa

汐入川は延宝7(l679)年に拓かれた前潟新田の悪水用の排水路として開削され、元禄11(1698)年に古川に変わる新しい船入川として改修整備された。汐入川は、沿線の広大な農地から悪水を排水し、湿田化を防ぐ重要な役割を果たしながら、倉敷川を経て早島と彦崎港を結ぶ運河として発達することとなる。起点にあたる舟本・弁才天にはそれぞれ船着場が整備され、年貢米や特産の畳表が盛んに積み出された。川の両岸は良質の藺(い)草の産地であり、西側の高須賀、早高、帯高は三高藺草として全国的に知られていた。晩春から初夏にかけて、麦の黄と濃緑の藺草が広がる中を、川岸のヨシを押し分けながら帆船が悠々と入ってくる様は、まるで活動写真の名場面を見るようであったと、明治に記された記録(「ある老人の思い出」佐藤悦太郎)はそう語っている。明治以降も、宇野線が開通するまで汐入川の運河としての役割は変わることはなく、金比羅や西大寺の会陽見物に出かける人もみなこの汐入川の船便を利用していたという。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.11

玉島港橋付近

Tamashimaminatobashifukin

写真は、明治末期~大正半ばの「天神祭り」の光景。この祭りは神輿が船に乗せられ玉島湾の沖に行き、海上で神事を行うことに特徴がある(海上渡御祭)。伝説によれば天神祭りの縁起は、美濃部という寺子屋師匠が学問の神・菅原道真公を祀ったことに由来するといわれる。その天神様・道真公を祀る菅原神社は、写真奥の小山の羽黒神社の境内にある。祭りの日、神社で神奉式を行った後、神輿は船(御座船)に乗り海に出る。かつては羽黒神社の参道下から、幔幕、竹、しめ縄、提灯を飾った和船二隻を並べた御座船が神輿を乗せていた。その後、和船は発動機船に変わり、二隻の船は一隻になった。羽黒神社参道下の雁木(石階段)から人の力で行っていた神輿の上げ下ろしも、クレーンを使うようになった。また水門で締め切られため、今は200m下った公園前から神輿は海に出る。周囲の風景と棟式は変わったのかもしれないが、天神祭りは今も続いている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.10

高瀬舟

Takasebune

高梁市内の下町西側の高梁川を上る高瀬舟を撮影したもの。舟前方の橋は方谷橋である。高梁川の舟運は、中世以来、備中国の南北をつなぐ交通手段であった。室町時代の天文年間(1532~1555)には河口から高梁(旧名は松山)までが整備され、その後、慶長年間(1596~1614)には新見市井高までが開通した。井高や高梁には米蔵や鉄蔵が置かれ、年貢米や鉄をはじめとする諸物資の輸送も盛んになり、瀬戸内の海運と連携して発展した。17世紀中期の備中松山藩主水谷勝隆(1597~1664)はさらに大規模な河川改修を行った。慶安4(1651)年までに段階的に改修が進み、新見まで達した。これにより、備北(岡山県北西部)の年貢米、鉄などの物資輸送が向上した。寛文11(1616)年、2代藩主水谷勝宗は新田開発に伴い、高梁川下流の船穂村(倉敷市船穂町)から玉島港を結ぷ長さ約9kmの「高瀬通し」を整備し、延宝年間(1673~1680)に完成して、高梁川河川交通の飛躍的発展が見られた。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.10

湛井堰(高梁川合同堰)

Tataizeki(takahashigawagodozeki)

総社市井尻野に位置する湛井堰(高梁川合同堰)は、それまでの湛井纏と上原井領堰(かんばらいりょうぜき)の合同堰として昭和40(1965)年に完成したものでここから引いた水は、十二箇郷用水(じゅうにかごうようすい)、上原井領用水、高梁川東西用水を流れ、約1万2千haの農地を灌漑している。湛井堰の起源は古く、平安時代にまでさかのぼるといわれている。平安時代の終わりごろ、妹尾郷(現在の岡山市南区妹尾)の荘園領主、妹尾兼康(かねやす)によって築かれたと伝えられる。湛井堰から取り入れられた高梁川の水はまず総社市をはじめ、岡山市、倉敷市に及ぶ広い範囲を流れる十二箇郷用水に取り入れられたため、高梁川西部や下流の地域ではしばしば水不足に悩まされ、水をめぐっての争いがたえなかった。しかし、この合同堰の完成と用水路の改修により、それらの問題も解決され、現在はより広い範囲の地域で農業に役立っている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.8

淀平井堰

Yodohiraizeki

淀平井堰は、現在の昭和橋のあたりより取水される用水である。井原市井原町を縦断した後、七日市・出部・笹賀町でも用水として利用された。写真は大正末年頃のものといわれる。場所は現在昭和橋が架かっているあたりである。上流より下ってきた小田川の水を堰き止め、向かって左端に引水される様子が分かる。左下隅には大きな水門らしき設備の一部が見えている。水門側ヘ流れなかった水が再び小田川ヘ合流する地点で、2人の男性が魚釣りをしており、かたわらに魚籠(ぴく)が置かれている。ここから取水された水は、井森神社や丸田妙見の横を流れ、幾筋かに分岐しながら井原町の田畑だけでなく、七日市や出部ヘ流れ込んだ。現在、井原町では市街地化が進んだため水路の多くが暗渠となり、上部は歩道として整備された。また、水路の一部は、現在の井原小学校運動場を横断して流れている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.8

宇戸川洪水

Udogawakozui

宇戸川は、井原市芳井町吉井で小田川に合流する支流である。種・花滝から流れ出て宇戸川の谷底地域を下った後に、1km程の平たん地を流れ小田川と合流する。写真は、昭和9(1934)年9月20日~21日の室戸台風で被害を受けた合流地点手前の市街地辺りの様子である。台風が去った後も宇戸川の水量は増しており、道路には崩壊や亀裂がみえる。対岸に多くの人が集まり、手前に倒れた電信柱が写っている。こういったことから、人が集まっている地点に元は橋が架かっていたが流され、住宅地も浸水するなど大きな被害を受けたことがわかる。室戸台風の襲来に際しては、現在の「男川橋」が流され、消防組頭の今井三郎が殉職したといった記録がある。こういったことから、写真は合流地点手前から宇戸川を振り返り、「男川橋」があった辺りを中心に撮影したものだろう。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.8

新橋

Shinbashi

備後の油木や備中北部から井原市を通過して笠岡市へ至る道は、昔から「笠岡往来」「東城往来」と呼ばれた交通の要路であった。この道が井原市井原町内で小田川を渡る箇所に架けられた橋が新橋である。新橋は、明治36(1903)年に架設されたが、後に洪水で流され、木橋の板面を丸太で作り、上を土で、ならした土橋となっていた。写真は、大正9(1920)年の大洪水により流出した新橋の様子である。川を挟んで手前が向町、対岸が新町であるが、新町側の橋脚が流れ、橋が落ちていた。対岸にも橋の上にも多くの人が集まっている。被害の状況を報告し合っているのだろうか。大正12(1923)年に架け替えられた新橋は以前より嵩上げされたトラス構造の鉄橋に生まれ変わった。橋名柱の揮毫は興譲館中学校長の山下秋堂である。渡橋式には多くの人々が参加した。対岸(向町)には山岡舞鶴楼の三階建ての建物が見える。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.8

台風被害の様子

Taifuhigainoyosu

昭和9(1934)年9月21日、日本に来襲した室戸台風によって堤防が決壊した高梁川と増水した紺屋川の様子を写したもの。室戸台風は高知県室戸岬から四国を経て、瀬戸内海、京阪神、北陸、東北に猛威を振いながら進み、大阪をはじめ各地に甚大な被害をもたらした。高梁では、備中広瀬駅付近で大きな被害が出たのをはじめ、中井町、高倉町、川面町、落合町、玉川町でも被害は甚大であった。高梁の市街地では記録的な雨量や堤防の決壊により家屋の76%以上が浸水した。高梁市内にある高梁川の橋梁で田井橋、方谷橋、落合橋、玉川橋はいずれも流された。写真(上)は紺屋川と伯備線が交差している場所で紺屋川に架かる橋を越えて増水している。人々が家屋の外に出て作業をしているところから、台風が去った直後の撮影かもしれない。現在、紺屋川河岸は石垣で整備され、桜の名所の紺屋川通りは「日本の道100選」にも選ばれている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.7

用水分水樋門

Yosuibunsuisuimon

大正14(1925)年に大改修を終えた高梁川は、かつて両岸に点在していた11の取水樋門を倉敷市酒津の取水樋門に統一した。当時の県知事の名を冠した「笠井堰」で高梁川本流から配水池ヘ農業用水を取り込み、分水樋門で現倉敷市、早島町の各地に用水を配分している。(写真左から)西岸用水、西部用水、南部用水、備前樋用水、倉敷用水と5つの用水に分水するのが、写真の分水樋門「東西用水酒津」である。当時の技術の粋を集めたこの樋門は、土木学会選奨土木遺産(2003年)、疎水百選(2006年)、近代化産業遺産(2008年)に選ぱれている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.7

新成羽川ダム

Shinnariwagawadamu

昭和43(1968)年に完成した高梁川水系の成羽川上流に中国電力株式会社によって建設された新成羽川ダムの姿。新成羽川ダムは重力式アーチダムで最上流にある新成羽川ダム(高さ103m)をはじめ、重力式コンクリートダムの田原ダム(高さ41m)、その下流の黒鳥ダム(高さ15.5m)の3ダムの総称でもある。本来、水力発電専用のダムで、それぞれに新成羽川発電所(最大出力30万3千kW)、田原発電所(最大出力2万2千kW)、黒鳥発電所(最大出力2千kW)が稼動している。また、水島臨海工業地帯をはじめ、児島、笠岡地域への工業用水を供給する役割も持つ多目的ダムである。かつて水没地域には約100戸の世帯があり、和紙の製造と漆掻きの生業も営まれていたが、丹下哲夫氏は下流の倉敷市ヘ移住し、「備中和紙」(No.67)を制作している。新成羽川ダムの貯水によってできた人造湖は備中湖と呼ばれており、「笠神の文字岩」(No.33)も現在は水没して湖底にある。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.8

用水配水池

Yosuihaisuiike

酒津の配水池は、明治43(1910)年末から大正14(1925)年春までの高梁川大改修工事の一環として、改修後の農業用水の公平かつ効率的な配分のため造られた。配水池の北からは八ケ郷用水、南からは分水樋門を通じて西岸用水・西部用水・南部用水・備前樋用水・倉敷用水の5つの用水が分岐している。これらは現倉敷市、早島町の田畑を潤す貴重な役目を担っている。昭和30年代、この配水池は、春の花見時期には伯備線に臨時駅「酒津駅」ができるほどの桜の名所であり、夏は子どもたちの遊水池になり、また貸しボートが水面に浮かぶ憩いの場所であった、との思い出を語ってくれる人も多い。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.7

用水取水桶門

Yosuishusuisuimon

明治43(1910)年末から始まった高梁川の改修工事は、大正14(1925)年春に完成をみた。足掛け15年の大工事であった。新たに一本化された高梁川では、個々分立していた11の取水樋門(一の口樋、八ケ郷樋、倉敷樋、備前樋、龍の口樋、福田古新田樋、福田樋、片山樋、船穂一の口樋、船穂三の堰樋、弁才天一の口樋)を統一し、農業用水を公平に配分することを目的に、倉敷市酒津に笠井堰・取水樋門と配水池を造った。これに先駆け大正5(1916)年には、市町村(都窪郡中洲村、中庄村、庄村、豊洲村、茶屋町、早島町、倉敷町、大高村、帯江村、万寿村、菅生村、浅口郡河内村、連島町、船穂村、長尾村、玉島町富田村、児島郡福田村、粒江村)による「高梁川東西用水組合」が設立された。そして、同12(1923)年の新設樋の利用開始以降、現在に至るまで安定した農業用水を、かつての19町村である現倉敷市、早島町に供給している。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.7

用水峻工記念碑

Yosuishunkokinenhi

明治43(1910)年末に始まった高梁川の大改修は、大正14(1925)年春に完成をみた。東西の高梁川を一本化することで治水対策とし、両岸で11に分かれていた取水樋門を倉敷市酒津の笠井堰・取水樋門、配水池に統ーすることで、農業用水の公平な配分を可能にした。高梁川の大改修と新しい水利施設の完成を祝う完工式は大正14(1925)年5月20日、配水池西の東西用水組合事務所前で盛大に開催された。式典には内務大臣や岡山県知事をはじめ600人が参加したが、これに先立ち東西用水組合は配水池の周辺に桜、楓、松など6千本あまりを植樹し、用水工事竣工記念碑を建てた。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.7

改修記念碑

Kaishukinenhi

高梁川(松山川・大川ともいう)は、母なる川であると同時に、氾濫を繰り返す暴れ川でもあった。嘉永3(1850)年6月には大雨が続き東高梁川が氾濫、遠く茶屋町・早島町までが六尺(約l80cm)も水没するという大災害となった。当時の高梁川が度々氾濫を起こす理由としては、酒津あたりで東高梁川と西高梁川の2本に分かれていたこと、上流部の砂鉄採取のためのカンナ流しにより土砂が堆積して天井川化していたこと、などである。繰り返す水害に悩む下流部の住民にとって高梁川の治水は悲願であった。明治13(1880)年7月の大水害の後には窪屋・浅口・賀陽・下道各郡内の有志が民間自力改修のための運動を起こし、岡山県は同19(1886)年9月の水害の後、川の流量を調整する工事を行った。しかし、これらは大きな効果をあげることはできず根本的な解決は、内務省による同40(1907)年春の高梁川改修の基本計画、同43(1910)年末の工事着手まで待たねばならなかった。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.7

鑵子の弦

Choshinogen

倉敷市酒津から相ざし清音黒田にかけての高橋川沿いの道は、かつて「鑵子(かんす)の弦」と呼ばれる断崖絶壁の難所であった。鑵子とは湯釜や茶釜のことで、弦は釜を吊るすつるのこと。眼下に急流を見る、細く曲がりくねって見通しの悪い道を称したのであろう。この道が地元篤志家により整備され、車馬の通行が容易になったのは、明治7(1874)年頃とされる。現在は主要道の一つ、県道24号線となっている。古写真にはすでに伯備線の軌道が見える。伯備線の倉敷駅から宍粟駅(現・豪渓駅)が開通したのは、大正14(1925)年のこと。伯備線はこれに前後して延伸整備され、昭和3(1928)年に全線が開通した。こうした道路の整備や鉄道網の発達は、物流の形態を大きく変えることになり、江戸初期以降、備中の物流を支えた高瀬舟は次第にその姿を決していった。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.6

高梁川

Takahashigawa

現在の酒津・清音古地あたりで東西2本に分かれていたかつての高梁川は、氾濫を繰り返す暴れ川であった。明治前半だけでも、同2年、13年、19年、25年と大きな水害が相次ぎ、明治26(1893)年には台風による水害のため、死者のみでも309人を数える大災害となった。こうした水害の原因の一つは、大量の土砂が川床に堆積しているためであり、その土砂は上流部で行われていた砂鉄採取(力ンナ流し)による山を崩した土砂であった。土砂の堆積により天井川化した高梁川の治水対策は、河川の改修によるしかなかったのである。東西2本の高梁川を一本化するという大工事は、明治43(1910)年末から始まり、大正14(1925)年春に完成をみた。この大改修以降、高梁川の下流部では室戸台風を除き、大規模な水害はほとんど起こっていない。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.6

東高梁川跡

Higashitakahashigawaato

明治末まで高梁川は酒津付近で東西2本に分かれて瀬戸内海に注いでいた。治水・取水のため、明治43(1910)年末から着工された高梁川の大改修工事は、東高梁川を消滅させ、西高梁川の一部を締め切って柳井原貯水池を造り、なおかつ川を西高梁川に一本化するという壮大な工事であった。この改修工事は、第一次世界大戦による諸物価の高騰や改修計画の変更等で予定を大幅に遅らせることとなった。そして、改修工事が完成したのは大正14(1925)年春のことで、当初474万円余りだった工事費は、792万円余りに増大していた。かつての東高梁川は、改修工事により新しい高梁川が酒津八幡山の南を回って流れ始めた大正12(1923)年1月で事実上廃川となった。同15(1926)年7月には内務省が「公用廃止」を告示して東高梁川は廃川地となった。昭和16(1941)年には、旧河口付近に三菱重工の航空機工場が設けられ、今日の水島工業地帯の先駆けとなった。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.6

里庄美しい森

Satoshoutsukushiimori

岡山県では10力所に、それぞれの地域にあったモデル的な「美しい森」を整備しており、その一つが平成8(1996)年にオープンした「里庄美しい森」。平成21(2009)年4月に県から里庄町に移管された後、諸施設が改修され利便性が向上した。里庄美しい森は、虚空蔵山(標高270m)から北に広がる森林を整備したもので五つの池を含む約17haもの広大な公園内には、野鳥観察小屋をはじめ、遊歩道、多目的広場、彫刻の森や冒険の森がある。また、近くまで車で行けるキャンプ場は13サイトで、炊事棟もあり、自然の中で野外生活の楽しさを体験できる。拠点、施設のビジターセンターは、木造2階建て延べ345㎡で宿泊室3室、20人が利用できるセミナー室、炊事室、シャワー室、水洗トイレなどが完備されている。年間利用客は約3,000人で森林の中で心の豊かさとゆとりやうるおい、やすらぎを感じている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.6

井原富士

Iharafuji

通称「井原富士」は、現井原市井原町の舞鶴山の別称。舞鶴山は、南北に細長く尾根が続いているが、北側の麓から眺めると左右対称になだらかなすそ野が広がることから「富士」の名がつけられた。近くには横手山城が築かれ、戦国時代には毛利氏旗下の武将が守ったが、江戸時代初めに廃城になったといわれる。写真②は麓の小田川河原の舞鶴公園辺りから井原富士を見上げた写真。この辺りから下流に向かって、小田川沿いには桜堤が広がっており、大正・昭和時代には井原の一大名所となっていた。手前に架かる橋は小田川にかかる新橋。当時の井原町の新町と向町を結び、行き交う人々で、賑わった。写真は、小田川を写した風景写真。写真②と一緒に写されたようだが具体的な場所は特定できない。小田川に土砂がかなり溜まり、水流が細くなっている様子がうかがえる。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.5

道祖渓

Dosokei

井原市西江原町才児(さいちご)の道祖渓は、全国的にも珍しい輝緑岩の台地が削られてできた渓谷である。幾つもの渓流と奇岩の間を流れる清流が、周囲の老木とあいまって映える景勝地である。現在も四季を通じて滝水が枯れることはない。「道祖渓」の名称がつけられたのは昭和初期である。渓谷近くには、高僧実峰良秀(じっぽうりょうしゅう)が嘉慶元(1387)年に聞いた永祥越寺があり、良秀の徳を慕って道祖渓の化身で、ある稚児が現れたとの伝説が残る。これによりこの地周辺は才児と命名されたといわれる。道祖漢は、昭和30(1955)年に県指定の名勝地となった。写真は、同10(1935)年に製造された「山陽ノ景勝中備道祖渓」の絵葉書の中の1枚で、「断魚の渓流」と呼ばれる滝を写したもの。絵葉書は10枚1組で、あったようで、他に「稚児滝ノ景」の絵葉書が残る。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.5

鬼ヶ嶽

Onigadake

鬼が獄は、小田川の支流美川(みやまがわ)の鬼ケ岳ダムから上流4kmにわたる渓谷である。奇岩と渓流が織りなす自然景観を楽しめる景勝地で、植生はアカマツや広葉樹林を主として、早春に花咲くアテツマンサク、初夏のウンゼンツツジ、秋に紅葉するカエデなどが美しい。渓流にはゲンジボタルやカジカガエルが生息する。昭和3(1928)年に、上流にあるラジウムを含む鉱泉が「鬼ヶ獄温泉」として整備され、多くの文人たちが訪れた。大正10(1921)年初夏には若山牧水が、昭和4(1929)年秋には与謝野晶子が夫・鉄幹と娘・藤子と共にこの地を訪れた。西条八十も湯治客の一人であった。晶子は美山川の渓谷を鏡川と名付け「みやび男とたおやめのため流れたる宇土の渓間の鏡川かな」という歌を残した。景勝地として知名度があがり、昭和5(1930)年に鬼ヶ獄は国の名勝地に指定された。鬼ヶ岳ダムができたため、現在は多くの渓流が川底に沈んでいる。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.5

芳井天神峡

Yoshiitenjinkyo

天神峡は、天神社・黒丸社の社叢を中心とした景勝地で小田川に添って約1kmにわたって広がっている。春は若葉や山桜が美しく、夏は渓流での水泳キャンプが楽しめる。特に秋の紅葉のすばらしさがよく知られている。京都の嵐山に似ていることから「小嵐峡」とも呼ばれる。天神峡の名称は、天神社に由来する。昭和31(1956)年より県指定の名勝地となった。また高梁川上流県立自然公園のーつである。現在の天神峡は、紅葉の美しさを引き立てる朱塗りの紅葉(もみじ)橋を一緒に収めたアングルがよく撮られており、橋は天神峡のシンボルとなっている。写真は昔の天神峡で、紅葉橋に架け替えられる前の天神橋が写っている。天神橋は木橋で、昭和2(1927)年に竣工した。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.5

豪渓

Gokei

名勝豪渓は高梁川に注ぐ樋谷(まきだに)川の上流にある渓谷。この渓谷には江戸時代末期、備前吉永出身の漢詩人で医者でもあった武元登々庵(たけもととうとうあん)書の「天柱」の二文字を刻んだ天柱峰をはじめとして、剣峰(けんがみね)、雲悌山(うんていやま)、盒子岩(えぼしいわ)などの花筒岩の切り立ったがけや石柱が槙谷川の渓流の両岸に林立している。これらの岩石美と清流、新緑紅葉の調和が壮大な自然美を創り出す景勝地で、特に秋の紅葉シーズンには、大勢の観光客でにぎわっている。また、昭和4(1929)年にここを訪れた与謝野晶子をはじめ、多くの画人、詩人らによってこれまでにその自然美が表現されている。大正12(1923)年には国の名勝地に指定された。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.4

弥高山・雲海

Yatakayama・Unkai

弥高山は、弥高い(いやたかい)という意昧から名付けられ、また山の姿から別名「飯山(いいのやま)」ともいう。吉備高原の西、広島県境に位置し、標高654m。他の山々よりひときわ高く、山頂からは360度のパノラマが開け、四季折々の吉備の山並みが見られる。霧やスモッグのかからないときには、北は伯雷(ほうき)大山、南は水島・福山の工業地帯から、はるか瀬戸の島々、四国の連山までもが眺望できる。生い立ちは、地質学でいう第4紀更新世までさかのぼる。更新世とは、ほ乳類が栄え、人類が出現して、氷期と間氷期を繰り返していた時代である。約17haの公園内には、それぞれの四季で楽しませてくれる自然がたくさんある。春には10万本のツツジが満開、梅雨時期にはアジサイが咲き誇る。夏には緑の中でキャンプやバーベキューができ、秋には紅葉・雲海が見ごろになり、冬には雪景色を見ることができる。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.4

高梁川河岸・下町西側

Takahashigawakashi・Shitamachinishigawa

昭和6・7(1931・32)年頃、高梁市下町西側を流れる高梁川の河岸の風景である。中世以来高梁川では、船を利用した輸送が行われていた。江戸時代前期の備中松山藩主水谷(みずのや)氏の時、大規模な高梁川航路の整備が行われ、高瀬船は高瀬通し・玉島港とともに備中国の重要な輸送手段として大いに利用された。高梁は「松山河岸(かし)」として重要な集積地となった。写真では河岸に石垣が築かれ、邸宅の土台と、その下に伸びる船頭道を見ることが出来る・かつては高瀬船が往来し、接岸した高瀬船から直接積荷を商家の蔵に搬入することができた。また、川の沖に向かって伸びる石組みは「猿尾」と呼ばれ、船着場とともに防波堤の役割も果たしていた。昭和3(1928)年、伯備線の全線開通とともに、高瀬船はその役割を完全に終えた。現在では、国道180号線の拡張により、写真で見られる往時の姿は失われ、堅固なコンクリート護岸に変貌している。

参考文献高梁川流域今昔写真展

羅生門

Rashomon

羅生門は新見市中心部から約9km南東に位置する草間地区にある。標高400m前後の草間台のドリーネにできた石灰岩の巨大なアーチで、第1門から第4門までアーチがつながり、末端は羅生門第1洞と呼ばれる吸い込み穴となる。成因は古い鍾乳洞が崩落し、一部分が残存してアーチとなった鍾乳洞の最後の姿である。夏に訪れるともやや冷気を感じることができ、まさに「羅生門」の名に相応しい光景を見ることができる。チョウジガマズミ・ヤマトレンギョウなどの石灰岩植物のみならず、洞口から吹き出す低温多湿な自然状態から、高山性や北方系の貴重な蘚苔類や地衣類が隔離分布している。蘚苔類では、サガリヒツジゴケ・イギイチョウゴケ・セイナンヒラゴケ、昆虫ではガロアムシなどの洞穴昆虫が生息しており、また7月初めになるとドリーネ内外で黄金色の光を点滅させるヒメボタルが見られる。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.4

満奇洞

Makido

満奇洞は新見市中心部から約9km東に位置する豊永赤馬地区にあり、阿哲台では最も早く開発された鍾乳洞で、昭和時代初期にはすでに他県にまで知られていた。洞穴は平面に発達した迷路に富む閉塞・断層裂か型の吐出(としゅつ)穴であり、総延長450m、最大幅25mである。最大のプールは夢の宮殿・竜宮と呼ばれ、無数のつらら石・カーテン・洞穴さんごが発達し見事な景観をもたらしている。プールの最大水深は約1mで、この水は洞内の炭釜・千枚目付近で地下に吸い込まれ、そのため洞口付近は流水がなく鍾乳石は乾燥し風化しつつある。鍾乳管(しょうにゅうかん)・つらら石・畦石(あぜいし)・カーテン・石筍(せきじゅん)・石柱が発達し、また小さな洞穴サンゴ曲石なども無数に存在しており、鍾乳石の宝庫とも呼ばれる。「満奇洞」の名は地名の「槇(まき)」にちなんで、歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻が命名したものである。「まきの洞夢にわが見る世の如く玉より成れる殿づくりかな」(鉄幹)「満奇の洞千畳敷の蝋の火のあかりに見たる顔を忘れじ」(晶子)

参考文献高梁川流域今昔写真展p.4

井倉洞

Ikurado

井倉洞は新見市中心部から約6km南に位置する草間地区にあり、びょうぶ獄(ごく)の石灰岩の絶壁に開口する全長1200mの鍾乳洞で洞口は小さく高さ2m、幅2mである。井倉上の穴から吸い込まれた水の吐出穴がある。洞内は石灰岩の節理に沿う溶食作用の結果によりできた割れ目が発達し、洞穴(天然の石灰洞)は、前半部は南北方向に、後半部は北北東方向に延びている。洞内には、地軸の滝・音の滝など落差50mにも達する観光洞としては珍しい滝がある。顕著な二次生成物(せいせいぶつ)には、つらら石・流れ石・力―テン・石筍(せきじゅん)・石柱などがある。観光客の便のため、回遊式の人口洞が獅子穴まで通じている。県下の観光洞の中でも最も交通の便がよく、満奇洞・羅生門とともに新見市観光のシンボルとなっている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.3

三室シャクナゲ

Mimuroshakunage

三室地区は新見市神郷町油野に位置し、三室ダムに隣接する。三室川沿いの峡谷には約1,000本のシャクナゲが群生しており、市指定重要文化財の天然記念物に指定されている。シャクナゲは高山植物で春から初夏にかけて開花する気品と風格がある花木であり、特に三室一帯に群生するものはツクシ系ホンシャクナゲと言われるものである。花は薄紅色をしており、花茎は4cm内外になり、5月上旬の開花時には実に壮観で油野川の渓谷の美しさとあいまって、辺りは一大桃源郷の観を呈する。またシャクナゲ最盛期の5月GW頃には、三室峡シャクナゲまつりが開催され、シャクナゲ観賞以外にも、ヤマメ魚つりや神郷太鼓、国指定重要無形文化財の備中神楽、餅投げなどのイベントや特産品販売が行われる。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.3

鳴滝

Narutaki

鳴滝は、千屋ダムに流れ込む別所川右岸に隣接する新見市菅生に位置し、岡山県備作山地県立自然公園特別地域にある。静かな日はおよそ2km離れた麓の集落まで大きな滝の音が聞こえることから「鳴滝」という名前が付けられた。この滝は、その昔、赤い着物を着た仙人が赤い牛を洗っていたという言い伝えから「牛洗(ぎゅうせん)の滝」とも呼ばれている。およそ30mの滝は三段になっていて、中国山地から流れる豊富な清流は、気にこの滝を落ちて地響きがするような音を周りにこだまさせている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.3

剣山

Kenzan

標高962mの剣山は、岡山県新見市干屋と鳥取県日野市にまたがる県境の山である。高さは小ぶりだが形がよい。美しい三角錐の山から流れる水が高梁川の源流の一つで、やがて時には激しく、時には悠々と瀬戸内海へと流れ込む。登山ルートは、明地トンネル入り口手前にある「剣山登山口」から三日月山と剣山ヘ登るコース、旧明地峠にある「新見美しい森ビジターセンター」から階段道を急登りするコースの二つである。入山すると水源地保護の杉林が続き、いたる所から湧き水が噴き出している。どちらのコースも初心者向きでよく整備されたコースである。九合目の休憩所からは、鳥取県大山をはじめとする北面の山々、日本海弓ヶ浜の大展望が得られる。山頂は狭いが、まさに360度の大パノラマが限下に展開している。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.3

水島臨海鉄道

Mizushimarinkaitetsudo

大正14(1925)年に峻工した高梁川改修工事によって東高梁川が廃川となった。昭和16(1941)年、瀬戸内海に面した半農半漁の廃川地に三菱重工業名古屋航空機製作所岡山工場が誘致され、水島臨海工業地得の歴史が始まった。昭和18(1943)年、航空機製造工場までの鉄道が敷設された。戦後、鉄道を管轄したのは倉敷市交通局だが、同45(1970)年からは水島臨海鉄道会社が経営を続けている。昭和59(1984)年、岡山臨港鉄道大元~岡山港間廃止。玉島臨海線は、同36(1961)年に起工し橋梁工事などを終えたが、同51(1976)年に計画自体が撤回となった。我が国に現存する臨海鉄道は10路線。だが、旅客と貨物を運行するのは、茨城県の鹿島臨海鉄道と水島臨海鉄道2路線だけである。水島臨海鉄道は、蒸気機関車が活躍していた頃から「ピーポー」の愛称で親しまれてきた。長大貨物列車を従え、東水島駅から西岡山駅までを疾走するディーゼル機関車の姿は、勇壮な現代版ピーポと呼ぶに相応しい。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.27

井笠鉄道

Ikasatetsudo

明治43(1910)年4月21日「軽便(けいべん)鉄道法」が公布された。この法律第57号に準じて敷設された鉄道を軽便鉄道と呼ぶ。ところが、現在、ケイベンは狭軌(きょうき)鉄道の軌間(きかん)3呎(フィート)6吋(インチ)(約106.7cm)よりも狭い鉄道を指して呼ぶことが多い。岡山県内では、明治末期から大正期にかけて西大寺鉄道、下津井電鉄、井原笠岡鉄道、三蟠(さんばん)鉄道など、軌間が狭軌幅に満たない鉄道が運行を開始した。井原笠岡軽便鉄道は、大正2(1913)年にまず笠岡~井原間を開業。同10(1921)年北川~矢掛間、同14(1925)年には井原~高屋間を開業。そして、昭和15(1940)年に神高鉄道高屋~神辺間を買収して全線開業を果たした。蒸気機関車はドイツやベルギーから、レールはドイツから輸入。軌間2呎6吋(約76cm)で同46(1971)年3月まで井笠の地を走り続けた。現在、新山駅は井笠鉄道記念館として整備され、コッぺル社製の蒸気機関車や車両、我が国唯一の軽便規格の転車台などを保存・展示している。また、矢掛駅の支柱と梁には、ブルバッハ社製のレールが使われている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.27

新見機関区

Niimikikanku

我が国の蒸気機関車庫には矩形と扇形の2種類が存在した。明治4(1871)年、横浜駅に矩形、新橋駅には扇形庫が建設された。現存最古の扇形庫は同18(l885)年に建造された北海道の手宮機関車庫、国の重要文化財に指定されている。ところが、手宮以降に建設された機関車庫は矩形が中心。姫路駅に煉瓦造の第2機関車庫が竣功した同36(1903)年頃から扇形庫が増え始めた。岡山県では、大正10(1921)年岡山駅、昭和3(1928)年新見駅、同11(1936)年津山駅にコンクリート造扇形庫が建てられた。新見駅の扇形庫は、同13(1938)年に7線からは14線構造に増築されたが、同47(1974)年の無煙化の後、同55(1980)年に解体された。新見機関区の全盛期は同41(1966)年頃。配属蒸気機関車38両、職員約400名を数えたという。現存扇形庫では京都の梅小路機関車庫が最大で、重要文化財の指定を受けている。二番目の規模を誇るのが旧津山扇形機関車庫で、昭和7(1932)年に大成された「扇形機関車庫設計標準図」に準じて建設された。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.26

未新田

Mishinden

写真は、笠岡駅に停車中の山陽本線71号機関車である。炭水車に71の数字と貨車に山陽鉄道の山じるしマークがみえる。機関車は明治30(1897)年頃、アメリカから購入したものである。国有化後の羽田(同42)年まで「71号」として使われており、その間の撮影である。JR笠岡駅舎は同24(1891)年建設、大正15(1926)年に一部改築、昭和34(1959)年に大改築された。改築にあたり笠岡市は、笠岡駅舎を市発展の大きな拠点(本市の表玄関)と考えていたので、多額の鉄道利用債を引き受け協力した。その2年後の同36(1961)年10月1日に、倉敷~三原間が電化開通した。笠岡駅では、小学生たちが小旗を振って記念電車を迎えた。電化開通と同時に電気機関車が導入された。それまで蒸気機関車に牽引された客車で煤煙に悩まされていた乗客は、快適な旅を楽しむことができるようになった。さらに、輸送力スピードアップにより、通勤通学や行楽などにも便利になってきた。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.25

金神駅全景

Kojinekizenkei

明治24(1891)年に私鉄山陽鉄道が笠岡まで開通すると、同年に玉島駅(現新倉敷駅)鴨方駅が開業した。その中間に位置する金光では、金光教の春・秋季大祭時には全国から参拝者があり、その利便性から大祭時には金神(こうじん)仮駅が設置された。また浅口群域は麦稈真田や酒蔵業・素麺業などの諸産業の発展が目覚ましく、金光でも常設駅の要望が高まり、明治34(1901)年金神駅が開業した。駅周辺は田畑に固まれたのどかな風景であったが、駅が開業されると、運送合資会社・銀行・土産物屋・旅館等が立ち並び、駅前の町並みも整備された。また駅前を中心に電燈が灯るなど静かな街も近代化が進んでいった。大正6(1917)年駅舎は大改修され、同8(1919)年金神駅から金光駅へと改称された。この写真は改修前の金神駅のものであるが、駅前に建物が並び、にぎやかに変遷してしく姿があらわれている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.24

まちかど郷土館

Machikadokyodokan

まちかど郷土館は、明治43年に建築された旧総社警察署の建物で、総社市内で現存する唯一の明治洋風建築です。館内には、備中売薬や阿曽の鋳物、い草関係など、明治を中心とした伝統産業の資料を展示しています。

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電話番号0866-93-9211
開館時間9:00~17:00
料金無料
所在地総社市総社二丁目17-33
休館日月曜日(祝日の場合、その翌日)、年末年始

総社宮

Sojagu

総社の地名の由来となったといわれる社。総社は、国中の神社を巡拝する慣わしの不便をはぶくため、平安時代末期に国府の近くに造られるようになったものであり、この備中の総社は324社の神々を一つに配ったもの。前庭の三島式庭園は、古代様式をそのまま今に伝え、長い回廊の美しい影が水面に映し出されている。また、拝殿には多くの絵馬が奉納されており、円山応挙や大原呑舟などといった絵画史に残る有名な画家によって描かれた絵馬も奉納されている。その他、直径2.5mの茅でできた輪を3回くぐりぬけ、厄除けを願う「輪くぐり祭」や、総社宮に伝わる力石(約180kgの横綱力石)をどれだけ長く持ち上げることができるかを競う「力石総社」などの行事が行われている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.23

備中国分尼寺跡

Bichukokubunnijiato

奈良時代の天平13(741)年に、聖武天皇が仏の力によって外敵や災害、疫病などの災いから国を守るため、全国に僧寺や尼寺を建てるように詔を出した。その命により建てられた尼寺の一つが、この備中国分尼寺である。備中国分尼寺跡は、備中国分寺の東方、約700mのなだらかな丘陵地にあり、国分寺とは異なり、短期間で廃棄されたものと考えられる。現在では、アカマツ林の中に残る建物の柱を支えた大きな礎石や、築地土塀の痕跡を残すのみであるが、当時の寺域は東西約108m、南北約216mと推定されている。建物は境内の中心線上に南門、中門、金堂、講堂が一直線に配置され、中でも金堂は残っている礎石からかなり大きな建物であったと想像できる。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.23

備中国分寺

Bichukokubunji

備中国分寺は、総社市南部のアカマツに包まれた美しい丘陵地帝のほぼ中央部に位置し、聖武天皇の発願によって全国に建立された国分寺の一つである。当時の境内は、東西約160m、南北約178mと推定されるが、建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在ある建物は江戸時代に再建されたものである。また、境内にそびえる吉備路のシンボルともいうべき五重搭は、県内唯一の五重塔で、国の重要文化財に指定されている。この五重塔は国分寺の再興からおよそ100年後の文政4(1821)年頃より建立が図られ、工事が完了したのは天保14(1843)年か弘化元(1844)年のことといわれている。総高約34.3mの大規模な塔で、木造本瓦葺、青銅製の相輸をたてている。3層まではケヤキ材、4・5層は松材を主に使用しており、心柱が塔の中央を礎石の上から相輪まで達している。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.23
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角力取山古墳

Sumotoriyamakofun

総社市(旧山手村)にある旧山陽道を北に望む低い丘陵上に築かれた古墳で一辺36m×38m、高さ約5mの吉備地方では最大規模の方墳。墳丘の外表構造については、斜面を覆う葺石や、段の有無も明らかではないが、墳丘に立てられた埴輸が少数ながら採集されている。埴輸の形状から5世紀後半に造られた古墳であると考えられるが、内部の埋葬施設の構造については全く明らかになっていない。その名の由来は、戦前、古墳の西側に土俵を設け、宮の祭りの際に奉納相撲が行われていたことからきているという説が伝えられている。また、この古墳の上には、県指定天然記念物で、樹齢約450年を誇る樹形の非常に美しいクロマツが枝を大きく広げ、そびえている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.22

こうもり塚古墳

Komoridukakofun

備中国分寺と国分尼寺跡の中間の丘陵にある前方後円墳で、またの名を「くろひめ嫁古墳」ともいわれていた古墳。6世紀に築造され、全長は約100m、奈良の石舞台古墳と同規模の巨大な横穴式石室を持つ。この横穴式石室は、全長19.4mで巨大な石を組み合わせて造られており、全国で第4位の規模を誇る。玉砂利を敷き詰めた石室には、貝殻石灰岩で造られた家形石棺や、土を焼いて作った陶棺、そして木の棺が安置されていた。盗掘の被害を受けてきたが、須恵器や土師器などの土器のほか、大刀や馬具をはじめとした鉄器などが多数出土している。また、この古墳は、かつて仁徳天皇に愛された吉備のくろひめの墓とされ、「くろひめ塚古墳」と呼ばれていた。しかし、6世紀後半に造られたもので、仁徳天曇の時代とは100年以上も隔たりがあり、また、石室内にこうもりがたくさんいたことから「こうもり塚古墳」と改められた。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.22

作山古墳

Tsukuriyamakofun

備中国分寺から西方約1㎞の田園地帯にある作山古墳は、全長286m、高さ約24mの3段からなる前方後円墳で、その規模は県内では岡山市の造山古墳に次いで2番目、全国でも第9位と巨大なものである。形状や構造、埴輪などの特徴から、造山古墳に次いで5世紀中ごろに築造された吉備の大首長の墓と考えられている。丘陵を3段に整形加工した斜面と平らな面からなる墳丘は、現在は草と木で覆われているが、築造当時は平らな面に5千本以上の埴輪が立て並べられ、斜面には石が敷き詰められていた。また、造山古墳と同じく天皇の墓とされていないため、中に立ち入ることができる古墳の中では全国でも最大級のものであるという特徴がある。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.22

舟本荒神

Funamotokojin

舟本は早島の河川交通の発着ではここ舟本から汐入川の水運を生かし、特産の畳表のほか、多くの物資を運んでいた。また、薪などの消費物資も児島湾を経由して運ばれてきた。この港の維持管理は村中総出で行い、安政3(1856)年には、昔の例にならい、みなとの破損修理のため村と役所と商人が共同で出資して川岸10間ほどを石垣に整備したとの記録がある。舟本荒神社は、延宝年間(1673~1681年)に前潟新田の開墾が完成したことに伴い、国家安全五穀豊穣祈願のために、千光寺(町内市場)境内の荒神社より分体奉祀されたものである。現在の舟本は、汐入川沿いに走る南北の県道と、岡山・倉敷に抜ける東西の道との交差点として、通行の多い箇所である。交差点には、金比羅平往来の道しるべがひっそりと佇み、今は道を行き交う人や車の流れを見つめている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.21

厳島神社・弁才天

Itsukushimajinja・Benzaiten

弁才天の地名は、厳島神社の祭神である弁財天に由来する。弁才天は、舟本と並ぶ早島の川港で、河川交通の拠点であった。厳島神社境内には、それを物語るように、天保年間に四国三豊郡和田村(現香川県観音寺市)から灰の購入にきた灰船の船頭たちが寄進した灯寵が今も残されている。また弁才天は四国への金比羅往来の沿線にあり、多くの旅人が行き来したところで、金比羅への道を示す道標も今に残る。江戸時代後期の金比羅往来は、ここ弁才天を起点に南下し、茶屋町・天城へと続いた。厳島神社境内には、ごつごつとした巨石が多く残されている。この巨石群は、川港の歴史をさらに遡り、この辺りがまだ海であった頃、打ち寄せる波が山肌を削ったものとされる。巨石群の上に鎮座する弁才天、厳島神社は、明治時代に諒まれた「早島十景」に「弁天の浮き見堂」として紹介され、今でも土地の歴史と昔の風景を静かに伝えてくれる。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.21

遍照寺

Henjoji

写真では、中央に遍照寺の仁王門、左端には枝垂れいちょう、右端には多宝塔がある。遍照寺は笠岡駅前土地区画整理事業によって昭和52(1977)年、西の浜の埋立地へ移転した。現在は「いちょう公園」となり、多宝塔と枝垂れいちょうの木だけが元の場所に残っている。慶長11(1606)年に建てられた岡山県下の多宝塔建築の中で最も古い国指定重要文化財の「遍照寺多宝塔」は、内部の天井・壁・柱などに装飾文様・絵画が極彩色で描かれている。枝垂れいちょうは、多宝港建立記念として植樹されたといわれる。枝がすべて垂れ下がっているところから「枝垂れいちょう」と呼ばれるが、これは学術上の品種名ではない。本樹は、雌株で秋にはたくさんの銀杏が採れる。また、遍照寺の仁王門に吊られている青銅製の梵鐘は、室町時代に鋳造されたものである。銘文が刻まれており、それによると、永年4(1432)年現在の早島町鶴崎神社の鐘として鋳造されたことが分かる。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.21

酒津真如院

Sakadushinnyoin

葉書のセットである。発行者は酒津婦人会であり、完成を祝う地元の様子がうかがわれる。絵葉書に「延命山眞如院」と表記されているこの寺は、現在「韶法山済興寺」と号し、酒津配水池の北にある。都窪郡誌には「当院は河川改修のため大正6(1917)年東酒津字荒神谷に移転せり」とあり、中洲町誌には「古来酒津本村にありしが河川改修のため同4(1915)年東酒津字城の内に移転せり」とある。いずれにしても高梁川の河川改修のため移転したものと伝わる。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.21

宝福寺

Hofukuji

井山宝福寺は、総社市赤浜で生まれた画聖・雪舟が幼い頃に修行をし、涙でネズミの絵を描いたという有名な逸話で知られる臨済宗東福寺派の寺院。京都にある本山東福寺との結びつきが強く、地方の中でも有力な律宗寺院である。もともとは天台宗の寺院だったが、鎌倉時代中頃に臨済宗に改宗された。境内にある三重塔は、南北朝時代の永和2(1376)年に建てられ、県内では2番目の古塔である。これは戦国時代の戦火を免れた貴重な建物で国指定重要文化財である。その他の建物は消失してしまったと考えられるが、歴代の住職などの努力により見事に復興された。仏殿や方丈などの七堂伽藍を備えた境内は禅宗特有の趣を感じさせ、座禅体験をすることができる。特に、秋の紅葉シーズンには数多くの観光客で賑い、訪れる人々の心に感動を与えてくれる。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.21
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福山城跡

Fukuyamajoato

福山城は総社市南部の福山(302m)山上に存在した山城。城跡は、鎌倉末期から室町初期にかけての南北朝動乱期を描いた軍事物語『太平記』に記された「福山合戦」の舞台となった場所として有名で国指定の史跡。1336(建武3)年、京都の戦いで敗れた足利尊氏は九州に逃れ、勢力を盛り返しながら再び都を目指し攻め上がった。この時、後醍醐天皇方の新田義貞軍の武将大井田氏経はこれを阻止するために福山城を占拠し、新田軍1500騎と30万の足利軍が、三日三晩にわたる激しい攻防を展開したと伝えられている。標高302mの福山は、古代より山岳仏教の寺院・福山寺があり、山頂部には平坦化された寺域と礎石がみられる。福山城はこの寺を改変して砦にしたため、にわかづくりの門の跡、土塁、井戸跡のほか、寺院の古瓦片や窯跡が残されている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.20

鬼ノ城

Kinojo

「謎の古代山城」として全国の歴史ファンの注目を集める鬼ノ城は、吉備高原の南の端に位置する標高約400mにある総社市の鬼城山(きのじょうざん)の8~9合目にかけて築かれた古代山城で、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の温羅(うら)退治の伝説の舞台としても有名で国指定の史跡。城の南側が深い谷と急斜面からなり、自然の地形を利用した難攻不落の堅固な要塞である。また、眼下には古代吉備文化の中枢地たる総社平野はもちろん、瀬戸内海や遠く四国山脈までを望むことができる。周囲を城壁が約2.8kmにわたって鉢巻状に巡り、城壁は一段一列に並べて置かれた列石の上に土を少しずつ入れてつき固めた版築土塁と高い石垣で築かれている。城内は約30haに及ぶ広大なもので水門が6ヶ所、城門が4ヶ所、食糧貯蔵庫と考えられる礎石建物跡などが確認されている。平成13(2001)年度から整備が開始され、古代山城としては初めて門と城壁が復元された。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.20

名勝頼久寺庭園

Meishoraikyujiteien

6月、サツキ、ツツジの咲く名勝頼久寺庭園を撮影したもの。頼久寺は南北朝時代(1336~1392)のはじめ、足利尊氏、直義兄弟が全国に建立した安国寺の一つといわれる。暦応2(1339)年に開かれ、臨済宗永源寺派の祖寂室元光を開山としている。一時、寺は衰退したものの、戦国時代のはじめ備中松山城主であった上野頼久(?~1521)が荒廃していた安国寺を再興した。これにより寺号が安国頼久禅寺と改められ、現在まで続いている。備中松山は上野氏の後、庄氏、三村氏、毛利氏などに治められたが、慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの直後から小堀正次(1540~1604)が備中国奉行として支配を行い、正次の死後、子の政一(遠州)が継いだ。遠州は作庭、茶の湯、築城などにその才能を発揮した。この頃、備中松山城は荒廃しており、仮の居館として頼久寺が使われ、頼久寺庭園はこのとき遠州によって作庭されたと考えられている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.20

備中松山城

Bichumatsuyamajo

天守の現存する国内唯一の山城です。天守は、臥牛山の山頂付近の約430mに築造されており、国の重要文化財に指定されています。時期によっては、雲海に浮かぶことから、「天空の山城」とも呼ばれています。

参考文献流域パスポート
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笠岡小学校

Kasaokashogakko

大正6(1917)年頃の写真で正確には「笠岡尋常小学校」、「笠岡女子尋常高等小学校」の時代である。中央に子どもたちが座っているのは当時あった井戸である。左の柵の外は同6(1917)年にできた笠岡区裁判所であると思われる。また、正面の建物は、かつて小田県庁舎として使われていた建物である。小田県庁舎が建っていた位置に昭和17(1942)年に建設された中央の赤い屋根の貫閲講堂、その右側には同31(1956)年新設した3階建ての鉄筋校舎があり、左側には同34(1959)年に新築した校舎がある。左にあった笠岡区裁判所の建物・井戸は、現在の運動場となっている。現在の笠岡小学校は、明治6(1873)年3月「敬業小学校」として発足し、同9(1876)に現在の小田県庁跡に移転。以後、通学区域は変わっていないが、時代、制度の移り変わりに従って学校の名称や規模もいくたびか変わりながら現在に至っている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.20

小田郡役所

Odagunyakusho

明治40(1907)年頃の写真で、小田郡役所は同11(1878)年9月20日に設置された。当初は威徳寺の建物を流用して庁舎としていたが、同31(1898)年3月7日に発生した大火災で焼失後、同33(1900)年に八幡平に新築されたのがこの新庁舎である。郡役所は大正15(1926)年7月1日までおかれていた。現在は廃寮となっている笠岡高等学校等の女子寮として使用されていた建物であり、当時の面影を残すのは石垣のみとなっている。明治23(1890)年5月17日に群制が公布され、それまで行政区画にすぎなかった郡が不完全ながら実態を備えることとなり、群には郡会及び郡参事会が置かれ、地主を中心とする有産者が郡行政及び町村監督行政への参政権を得ることとなった。郡議員は笠岡地方で見る限りはかなり庶民的であり、議長は郡長がなっていた。制度的には自治体としては限界があり、郡長は政府の官僚的統治の最先端として中央集権政策遂行の中枢的役割を果たした。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.19

里庄庁舎

Satoshochosha

明治22(1889)年町村制施行で発足した里見村と新庄村が、同38(1905)年に合併して里見村となった。昭和25(1950)年6月1日には町制施行によって里庄町となり、平成22(2010)年には町制60周年を迎え、現在に至っている。人口は、町制施行を行った昭和25(1950)年6月1日において、7,469人で、水島と福山の工業地帯の中間に位置する地理的条件や国道2号線、山陽本線が通るなど交通条件に恵まれていたことから、工場立地が進むとともに、ベッドタウンが形成され、人口も増加に転じている。平成2(199O)年には1万583人と1万人を超え、同22(2010)年現在、人口は1万1,076人、世帯数は4,087世帯である。旧庁舎は、昭和3(1928)年に建築されたもので現庁舎は同51(1976)年4月に完成した。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.19

旧制岡山県立矢掛中学校正門

Kyuseiokayamakenritsuyakagechugakkoseimon

旧制矢掛中学校は、県下で四番目の県立の中学校として明治35(1902)年に開校した。当時、備中南部の地に県立中学校の設置を望む声が高まり、候補地をめぐり紆余曲折を経た末の開校だった。その後、昭和23(1948)年に岡山県立高等学校設置条例により、岡山県立矢掛第一高等学校と改称し、同24(1949)年には矢掛第二高等学校(旧岡山県立矢掛高等女学校)と統合し、矢掛高等学校が誕生。さらに、平成18(2006)年に県立矢掛商業高等学校と統合し、現在の矢掛高等学校となった。開校以来、矢掛町を中心に周辺地域の高等教育の拠点となり、約2万人の卒業生を輩出している。この写真の正門は設立当初のもので、今も校内に移築保管されている。学校を囲む石垣と白壁は今も健在で風に揺れる柳の葉とのコントラストが、ふるさとの情景として瞼に焼き付いている方も多いのではないだろうか。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.19

桜渓塾

Okeijuku

桜渓塾は旧川上郡九名村出身の儒学者阪谷朗廬(さかたにろうろ)が、嘉永4(1851)年に後月郡築瀬村(現井原市芳井町築瀬)ヘ開いた塾。阪谷朗廬は大阪の大塩平八郎や江戸の昌谷精渓(さかやせいけい)、古賀洞庵(こがとうあん)らに学んだ、優れた儒学者であったが、26歳で病気の母の元ヘ帰郷、その後結婚し桜渓塾を開いた。しかしその後、朗廬の名声を伝え聞いた一橋領の友山勝次代官は、教諭所(後の郷学興譲館)を設けるために彼を招聘し朗廬は後に初代輿譲館長となった。朗廬は嘉永6(1853)年より興譲館ヘ移り住むと、明治元(1868)年に広島藩ヘ招聘されるまで教育に尽力した。明治時代に入ると代々の館長・校長は朗慮の遺徳を称えるとともに、輿譲館の歴史・伝統を重んじるようになり、学校発祥の地である桜渓塾保存の機運も高まった。大正2(1913)年には、写真中にみられる石碑建立や草廬補修が行われた。本来の塾は石碑建立の場所にあったといわれている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.19
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旧制高梁中学絞

Kyuseitakahashichugakko

参考文献高梁川流域今昔写真展p.19
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私立順正高等女学校

Shiritsujunseikotojogakko

順正女学校の校舎風景を写した絵葉書。明治12(1879)年、初めて高梁にキリスト教が紹介され、同15(1882)年に高梁キリスト教会が創立する前年、金森通倫や新島襄の影響を受けた福西志計子、木村静子によって女子教育専門の機関として「私立裁縫所」が紺屋川南岸の向町に設立された。近代女子教育機関としては岡山県最古のもので、同18(1885)年には順正女学校と改称し、初代校長にはキリスト教伝導に尽力した柴原宗助が就いた。同29(1896)年、伊吹岩五郎校長のとき紺屋川北岸の伊賀町に拡張移転した。昭和24(1949)年、旧制高梁中学校と合併により新制岡山県立高梁高等学校となるまでの間、この地域の女子教育の中心の役割を果たした。現在、岡山県指定史跡「順正寮跡」として、建造物も残され、旧順正女学校跡地にはその名を冠した学校法人順正学園がある。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.19
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吹屋小学校

Fukiyashogakko

現在、現役最古の木造校舎として知られる吹屋小学校と、その明治40年代頃の様子。欧屋小学校の発足は名称の変遷などはあるが明治6(1873)年とされ、学制の制定と三菱が吹屋の吉岡銅山を買収した年とほぼ時を同じくしている。明治31(1898)年、吉岡鉱山から当時の吹屋村ヘ吉岡鉱山本部跡地を吹屋村高等小学校校舎敷地として寄附され、現存の校舎はその場所に建てられた。校舎は同33(1900)年10月に東西校舎と東西廊下が竣工した。4年後には東校舎北東部の旧吹屋女学校校舎が完成し、本館は同42(1909)年11月に落成した。以来、100年余りの間、この地域の人々の学び舎として続いてきた。近年、近代化遺産の評価が高まるにつれ、欧匡小学校も注目されてきたが、平成23(2011)年度の卒業生を送り出したのち、閉校となる予定である。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.18

笠岡ベイファーム

Kasaokabeifarm

平成19(2007)年度に国道2号笠岡バイパスが暫定的に供用開始となった。笠岡市は国土交通省と協力して、笠岡バイパスの側道沿いに県内で16箇所目の「道の駅」建設を決定し、平成23(2011)年8月4日に「笠岡ベイファーム」がグランドオープンした。オープン当日には多くの来場者が訪れ、盛大なものとなった。その後も、早朝から多くの人たちで賑わっている。笠岡湾干拓地内の100万本の「ひまわり」や道の駅の隣にある3haの農地の「コスモス」も祝福してくれている。「笠岡ベイファーム」の名称は、平成22(2010)年秋に名称募集を行って、応募総数527通の中から決定した。笠岡ベイファームは、笠岡湾干拓地をアピールして笠岡を情報発信していくとともに、笠岡の農産品・笠岡諸島の水産物や土産物などを販売する直売所やレストラン等の施設を備えており、道路利用者への情報や休憩サービスを提供している。笠岡の農業や観光産業の振興を進める新たな拠点となっている。

所在地笠岡市カブト南町245-5
参考文献高梁川流域今昔写真展p.16
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備中鴨方手延べ麺

Bichukamogatatenobemen

浅口市北部、標高400m近い遙照山山系の阿部山を水源とする杉谷川周辺では、江戸時代の文政年間に農家の副業として、素麺生産が採用された。鴨方が麺の産地として発達した理由は、二毛作として栽培されていた小麦、瀬戸内海沿岸で生産されていた塩、そして湿度が低く晴天の日が多い気候という好条件に恵まれていたためであろう。江戸時代の末期になると播州(兵庫県)から水車石臼製粉技術が伝播。最盛期の明治末期には、水車小屋が杉谷川沿いに60力所に並び稼働していた。素麺作りは、12月から3月まで行われ、生地を仕込んでから麺に仕上げるまで、約30時間休む間もなく作業が続く。写真は、屋外での門干し作業。機(はた)とよぶ乾燥用の木枠に麺を掛け、2本の箸を操って、2本の間隔が2m程度になるまで延ばし麺線を作っていく。麺作りは、「麺生地は生き物」といわれるように天候条件により塩加減や熟成時間等を考慮する職人の技巧を垣間見ることができる当地域の伝統文化である。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.16

備中和紙

Bichuwashi

備中和紙は、主原料である楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)の樹皮繊維を黄蜀葵(とろろあおい)ののりの中に溶かし、一枚一枚漉いて作る。かつては日常の用に使われていたが、現在は、楮紙はもちろん仮名書道用の鳥の子紙(雁皮紙)などのほか植物染料による渋い色調の染め紙も製造している。また、昭和55(1980)年の東大寺昭和大納経の用紙に指定されるなど、書に適した紙として書家の間で好評を得ている。和紙を作る技術は、奈良時代から伝わったと言われている。明治時代になると洋紙におされ生産は激減し、「清川内紙(ないごうちがみ)」という和紙だけが備中町の成羽川沿いで細々と漉かれていた。昭和39(1964)年の新成羽川ダム建設により産地がなくなったが、復活を願う人々の努力でもあり、丹下哲夫氏が生産の場所を倉敷に移し「備中和紙」として再び生産するようになった。昭和57(1982)年3月には、岡山県伝統的工芸品として指定されている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.16

藺草田

Igusaden

岡山県で藺草が大量に生産され、畳表が流通商品となった歴史は、江戸時代前期の児島湾干拓による広大な新田開発の時代に遡る。海を干拓した土地には塩分が残るが、塩分に強い藺草と綿は、この新しい大地に力強く根を張った。明治29(1896)年の「郡市別藺草作付面積」の記録によると、県下で都宇郡が最も多く、次いで御野郡、窪屋郡の順であり、県南の干拓地を中心に広大な藺草が広がっていたことが分かる。また、藺草の栽培とともに、畳表の家内工業が発達し、家ごとに畳表の機を織る音が聞こえていた。江戸時代、早島で織られた畳表は「早島表」の名で全国に知られた。藺草の栽培は大変な重労働で、繁忙期には県内外からの労働者も多く雇われ、町に人が溢れたという。しかし、藺草の栽培も昭和40年代頃から衰退し、今では県下でもほとんど藺草田は見られない。早島町では、平成13(2001)年に「ゆどころ保存会」が結成され、長く続いた藺草栽培の歴史を今に伝えている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.16

向山

Mukoyama

向山から、倉敷紡績(現倉敷アイビースクエア)を望む風景。写真の奥、中央に見える特徴的な山は、酒津八幡山。現倉敷アイビースクエアは、ツタに覆われた赤レンガの壁が特徴の近代化産業遺産。昭和48(1973)年に、倉敷紡績所旧工場が修繕・再生されたものである。倉敷紡績所は、明治22(1889)年に倉敷代官所跡に建設されたものである。明治の創業以降、昭和20(1945)年まで、倉敷の発展を担う中心であった。紡績所建設前のこの場所には、倉敷代官所が存在していた。倉敷代官所は寛永19(1642)年から慶応2(1866)年の倉敷浅尾騒動で灰贐と化すまで、この地に設置され、備中(倉敷)、美作(久世)、讃岐(塩飽諸島)の天領を支配する枢府となっていた。今は、代官所跡の記念碑と濠の遺構が、倉敷アイビースクエア構内に残るだけである。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.16

たたら製鉄

Tataraseitetsu

たたらとは千年以上の歴史を持つ日本古来の製鉄方法である。たたらは川の砂鉄と木炭を燃焼させて鉄を得るもので、森林資材の豊富な中国山地から日本海一帯で盛んに作られており、高梁川流域でも新見市から総社市に至る各地でたたら跡が散見される。因みに、「真金吹く」は「吉備」の枕詞で製鉄の精錬の工程で飛び散る火花の様を言い表わしているとされる。中世において、新見市は「新見庄」として栄えた京都東寺(教王護国寺)の荘園で、良質な砂鉄が採取されていたことから、鉄を年貢として納めていたという記録が東寺百合文書(国宝)に残っている。その鉄を作る製法を現代によみがえらせるべく、「中世たたら製鉄の再現」を平成11(1999)年から行っており、同19(2007)年からは「たたら体験学習事業」として市民参加型の体験実習を実施している。写真は、燃え盛っている炉内に砂鉄を入れる場面である。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.15

金比羅往来

Konpiraorai

江戸時代、備中南部の主要な道を「備中国絵図」に見ることができる。絵図には、中国地方を縦貫し東海道につながる大動脈の山陽道と、庭瀬から鴨方・笠岡に至る鴨方往来が描かれている。この二つの道と交差する南北線として、撫川から南に早島を経て備前児島ヘ至り四国へと続く道が、後に金比羅往来と呼ばれる道筋である。金比羅往来は、中・四国間の重要な連絡路であるとともに、金比羅参詣や四国八十八ヵ所巡りの旅人で賑わう信仰の道でもあった。金比羅往来は、この南北線とともに岡山城下から妹尾を経て早島に至る東西線があり、早島は東西、南北の金比羅往来の交わる交通の要衝であった。特に町の中心部を通る道は、児島湾干拓の先がけとなった宇喜多堤の跡といわれている。多くの旅人が行き交う金比羅往来には道標が立てられ、要所要所に旅籠や茶店が並び、賑わったという。町内には、今でも当時の往来が偲ばれる道標や灯籠が随所に残されている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.15

倉敷駅前

Kurashikiekimae

写真は昭和36(1961)年の倉敷駅前。写真左手が倉敷駅。左に伸びる道を行くと駅前に出る(現在は駅南側のロータリー)。写真の上が東。下が西。バスとトラックの走るこの車道が、現在の国道429号線。しかし昭和36(1961)年当時には、センターラインもない。写真の右斜め上に走る道が、商店街の現栄天街と倉敷センター街。写真の右斜め上の建物は、現在もある中国銀行倉敷駅前支店。その前の車が停まっている舗装されていない場所は、当時の中国銀行の駐車場。写真の右に延びる車道を行くと、現市役所方面ヘ行く。この当時は、この道はまだ細く、今のように片側2車線になっていない。写真の右斜め下、二人連れが歩いて出てきているのは、商店街の現倉敷一番街である。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.15

笠岡商店街

Kasaokashotengai

明治40(1907)年頃の写真で、小田郡笠岡町の本道通り筋。商店街の通りは、江戸時代から浜街道として東西を結ぶ主要な道であり、これに面して商家が軒を連ねていた。県西部から広島県東部一帯にわたる顧客を集めていたという。明治20年代頃の笠岡町の中心商家街が本島町通り筋であった。昭和37(1962)年の笠岡市商店街診断報告書によると、笠岡の商店街は、昭和以前創業の商店が47%、しかも明治時代創業というのが全体の33%であった。大正に入ると、最寄りの品だけでなく買いまわり品を扱う商店が増えて小売商の幅が広がっており、商店街が周辺の備中地南西部からの集客力を強め、港町だけに歓楽的施設もあった。明治43(1910)年には備後水力電力側により電灯が笠岡・金浦につき、商家の販売力を高めていった。

時代明治40(1907)年頃
参考文献高梁川流域今昔写真展p.14

石火矢町ふるさと村

Ishibiyachofurusatomura

高梁市の市街地的一角、石火矢町の町並み。石火矢町は、江戸時代備中松山藩主池田長幸によって武家町として建設された町である。「石火矢」とは石または鉄・鉛などを飛ばして用いた火砲のことで、近世初期に西洋から伝来した大砲をさす。しかし、ここに居住した武士が必ず火砲に関わったわけではない。江戸時代の後半にこの地域を治めた板倉氏の家臣団は家格によって1番から5番まで格付けされた屋敷に居住したが、石火矢町には2番屋敷が置かれた。現在、公開されている武家屋敷館折井邸はその典型例である。また、同じく公開されている埴原邸は4代藩主板倉勝政の生母志茂の実家であったため、式台などの意匠が2番屋敷以上の格式で設置されており、見所の一つとなっている。現在は岡山県のふるさと村に指定されており、武家屋敷の折井邸、及び埴原邸が公開されている。また、武家町のたたずまいを見せる土塀や武者窓などもみることができる。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.12

広兼邸

Nishietei・Hirokanetei

広兼家は、ベンガラの原料となるローハの製造で財を成しました。広兼邸は、江戸末期に建てられた楼門づくりで、城郭にも劣らない堂々たる石垣は、今もそのままに当時の富豪ぶりをたたえています。

電話番号0866-29-2222
開館時間4月~11月9:00~17:00、12月~3月10:00~16:00
料金大人300円・小人150円
所在地高梁市成羽町中野2710
参考文献流域パスポート
休館日12月29日~12月31日

吹屋の町並み

Fukiyanomachinami

銅山町として発達し、ベンガラの生産によって栄えた吹屋の町並み。石州瓦とベンガラ塗りの柱や壁の赤褐色が特徴の現在の町並みと、明治30(1887)年頃の吹屋の姿。吹屋銅山の起源については平安時代初期807(大同2)年説があるが、一般には室町時代(南北朝時代)が有力視されている。江戸時代の銅山経営は大塚家を中心とした地元資本の村稼ぎの時代と泉屋、代官所などの外からの資本による経営の繰り返しであった。町に直接富をもたらしたのは江戸時代後期から始められたベンガラの生産と考えられている。明治6(1873)年三菱の岩崎弥太郎が、請負権を買収してからは飛躍的な生産量となったが、昭和47(1972)年に閉山し、銅山としての歴史を完全に閉じた。現在、吹屋の町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区とふるさと村の県指定を受けており、江戸時代末期から明治時代の建物が並び、かつて栄えた銅山町の風情を今に伝えている。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.12

森田酒造前

Moritashuzomae

倉敷市本町の阿智神社参道を望む風景。現在、倉敷の顔となっている「美観地区」。この情緒ある町並みの保存には、古くから先覚者たちが尽力し、昭和30年代後半から、住民・行政が一体となった保存活動の取り組みへと発展していった。昭和44(1969)年、市の伝統美観保存計画の策定、同53(1978)年、市の伝統的建造物群保存地区保存条例の制定、そして同54(1979)年国の重要伝統的建造物群保存地区として指定。保存地区に指定されてから後の方が、住民には苦労が多いことだと思う。しかし、今もにぎわう街中にあって、容易に百年前の写真と同じ場所を見つけることができ、はるか昔に思いを馳せることができることは、倉敷市民のみならず岡山県民の大きな誇りである。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.10

倉敷考古館と中橋

KurashikikoukokantoNakabashi

現倉敷美観地区の倉敷考古館と中橋を撮影した大正初期と平成21(2009)年の様子である。倉敷考古館は昭和25(1950)に開館。倉敷で江戸時代から商家を営んでいた小山家の土蔵を利用したものである。太鼓状のカーブを描く石造りの橋は、中橋。この中橋は、明治10(1877)年に木造から現在の石造へと架け替えられた。大正初期の写真では川岸に電柱が見える。倉敷に電灯がついたのは明治43(1910)年。撮影の少し前のことである。また当時、岸に植えられているのは桜であるが、現在は柳に植え替えられている。中橋の向こうには舟が見える。倉敷川は児島湾を経て瀬戸内海につながる物流の大動脈として、江戸時代から倉敷の発展を支えてきた。倉敷川は海につながる汐入川であり、物資の運搬を担う舟の入出する舟入川であったのだ。しかし、昭和34(1959)年の児島湾堤防締切により倉敷川は淡水化し、通船もとだえ、物流の川としての役目を終えた。

参考文献高梁川流域今昔写真展p.10

矢掛町商店街

Yakagechoshotengai

矢掛の商店街は、江戸時代の宿場が時代の経過の中で発展し、誕生したといえる。元来、矢掛の宿場ではそれぞれの町家が旅籠としての機能を持ちつつも、平常は商売を営んでおり、江戸時代中頃の町絵図にも、たたみや、たばこや、とうふやなど多彩な商家が記録に残されている。また、矢掛は町の南側を流れる小田川を利用した高瀬舟の川湊としての機能も持っていた。かつては陸と河川の交通の要衝として、人と物資が行きかい、賑わいをみせていたことが想像される。現存する古い町家は江戸期のものだけでなく、明治・大正・昭和初期に建てられたものも多く、伝統的な和風建築の中に近代化による洋風建築の技術と意匠を取り入れた斬新な建物もある。時代の変遷の中で技術の進歩とともに町がどのように発展してきたのかを物語る貴重な資料だといえよう。

時代江戸時代
参考文献高梁川流域今昔写真展p.13

高梁の町並み(大正10年ごろ)

Takahashinomachinami(taisho10nengoro)

大正10(1921)年頃の高梁の町並みを撮影。高梁川西岸からサーカットカメラを用いて撮影されたパノラマ写真と思われる。備中松山の城下町の構成は他の城下町と同様、武家町、商家町、寺院群に大別される。町は山城のある臥牛山南麓にある「御根小屋」(藩庁と藩主の居館を兼ねる)を中心に主に南方にしかも高梁川に沿って広がっている。武家町は町名を「町」とせず「丁」と表現する町が多かった。また、武家町の大半は6万5千石の所領と、相応の家臣団をもった池田家によって取り立てられた。商家町は江戸時代の初期から段階的に広がり、17世紀後半の水谷氏の跨代に南町が建設され、城下町の範囲がほぼ確定された。写真には方谷橋が見えるが、現在は、方谷橋も木造橋から鉄骨の橋となり、護岸の石垣はすべてコンクリート護岸となり国道180号線が通るようになった。

時代大正10(1921)年頃
参考文献高梁川流域今昔写真展p.13

伯備線足見陸梁

Hakubisenashimirikuryo

昭和3(1928)年10月に伯備線が全通した。これで初めて岡山・鳥取両県が鉄道で直接結ばれることになった。ここに両県民の宿願であった、いわゆる陰陽連絡鉄道が完成をみたのである。その計画は早くからあったが、明治25(1892)年に制定された「鉄道敷設法」には3本の比較線が示された。その内の西方線(倉敷―境)が、伯備線の前身である。その後、備中地域の人々が、犬養毅率いる国民党を支持して猛烈な建設運動を展開した経緯もある。一方、高梁川には古くから高瀬舟が就航していた。鉄道は、その速度、積載量、安全性などにおいて、高瀬舟の競争相手ではなかった。鉄道建設が進むにつれて、高瀬舟は次第にその姿を消すことになった。写真では、帆を上げて川上ヘ向かう一艘の高瀬舟、岸には弧を描いたレールが見える。黒煙を吹き上げる汽車が、今にも姿を現しそうな歴史的な一枚の写真である。

時代昭和3(1928)年10月
参考文献高梁川流域今昔写真展p.10、新見市足見「伯備線建設概要」