福西 志計子【1847年~1898年】教育者高梁市ふくにし しげこ

 

 弘化4(1847)年、備中松山藩士福西伊織の長女として、備中松山城下加賀町(高梁市御前町)で生まれる。7歳のとき、父親を失い母の手一つで育てられる。女子の学問は考えもつかなかった時代であったが、母親は志計子を密かに山田方谷先生の門に出入りさせて学問を修めさせた。

 明治8(1875)年、志を立て、木村静と共に「岡山裁縫伝習所」に学び、翌年、高梁小学校附属裁縫所の教師になる。明治12(1879)年、金森通倫らがキリスト教伝導のため来高、感銘を受ける。翌明治13(1880)年、京都同志社新島襄の伝導を聞き、婦人会創設に尽力。しかし、明治14(1881)年、キリスト教に対する反抗世論のため、同附属裁縫所教師を辞職、木村静と共に高梁市向町に私立裁縫所を開設した。明治15(1882)年4月26日、高梁キリスト教会創立の日に福田銀、柴原宗助らと共に、岡山教会牧師金森通倫から洗礼を受け入会した。

  女子教育に文科併置の必要を感じ、東奔西走の末、文科併置となり、明治18(1885)年1月、裁縫所を私立順正女学校と改称。初代校長に柴原宗助が就任。志計子は経営者兼教師を務めた。生徒数も増加し、手狭になったため、明治26(1893)年、校舎新築趣意書を発表、日夜奔走し、遂に明治29(1896)年、伊賀町14番地に新校舎と寄宿舎が完成した。しかし、この時の苦労が原因で病に冒され、明治38(1905)年に51歳で永眠した。福西志計子没後も、志は引き継がれ、岡山県立高梁高等学校まで続くのである。

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