井戸 平左衛門【1672~1733】代官笠岡市いど へいざえもん

 

 世に「いも代官」と呼ばれた名代官である。享保16(1731)年9月、60歳のとき、石見銀山を受け持つ石見国大森(現島根県大田市)の代官に任命された。翌17(1732)年から、備中国笠岡代官を兼務した。時に西日本一帯はウンカの大発生によって未曾有の大飢饉となっていた。平左衛門は事態が一刻を争うと判断して、幕府の命令を待たずに独断で陣屋の米蔵を開放して、飢えた人に米を与えたという。また、被害の大きな村々の年貢を大胆に免除し、領民には助け合いの心を説いた。さらに、やせ地でもとれる食物として甘藷(サツマイモ)を導入し、飢饉をしのいだ。これらの優れた施策によって、井戸代官の支配地からは、ひとりの餓死者も出さなかったと伝えられる。

 享保18(1733)年4月18日に笠岡陣屋へとやって来て、5月26日に亡くなった。幕府の許可を得ないで米蔵を開放した責任をとって切腹したとする説と、病死説の二説があるが、医師の診察記録等の存在から、病死説が有力のようである。

 平左衛門の死後、各地に功績をたたえる頌徳碑が建てられた。その数は数百ヵ所にも及ぶという。墓は笠岡の曹洞宗威徳寺にあり、笠岡市指定史跡となっている。

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威徳寺所蔵
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