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赤沢 文治

【1814~1883】文化11(1814)年、浅口郡占見村(浅口市金光町占見)の農家の次男に生まれた。12才で同郡大谷村(金光町大谷)の農民川手家の養子となるが、養父の遺言で赤沢姓に変え、家督を継いだ。..

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赤松 月船

【1897~1997】明治30(1897)年、浅口郡鴨方村(浅口市鴨方町)の農家に生まれる。小学校卒業と同時に井原市の善福寺住職赤松仏海の養子となる。明治42(1909)年、13歳で得度し、名を「月船」と改めた。大正3(1914)年に愛媛県新居浜の瑞雲寺、続いて大正5(1916)年に総本山永平寺へ雲水修行に出る。..

秋庭 重信

【生没年不詳】 鎌倉時代の武士。備中国上房郡有漢郷(高梁市有漢町)の地頭。通称は三郎という。秋庭氏は、もと相模の国(神奈川県)の武士であったが、重信は承久3(1221)年に起こった承久の乱の軍功があり、..

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阿藤 伯海

【1894~1965】明治27(1894)年、浅口郡六条院村東相部(浅口市鴨方町)に生まれる。俗称を伯海、大簡と号した。祖父の嘉平は、家塾を開き、『嶺南精舎』と称し、父の暦太は、村会議員、銀行支店長等を勤めた。伯海は、男子6人の長子たり。..

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池田 遥邨

【1895~1988】明治28(1895)年、岡山市門田屋敷(両親の当時の居住地)生まれと推察される(本籍地は浅口郡乙島村=倉敷市玉島)。幼少期から絵を描くことが好きで、明治43(1910)年に15歳で大阪に出て洋画家・松原三五郎の天彩画塾で学ぶ。..

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石井 直三郎

【1890~1936】明治23(1890)年、小田郡矢掛村(小田郡矢掛町)に生まれる。生家は数々の大名や幕府の役人が泊まったとされる本陣職を代々務めていた石井家の分家である。矢掛中学から第六高等学校、東京帝国大学文科大学国文科に進学。..

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磯崎 眠亀

【1834~1908】天保5(1834)年、都宇郡帯江新田村(倉敷市茶屋町)の織物屋・児島屋の家に生まれる。児島屋は札元として藩札の発行等にも関与していたが、それが仇となり、父の急死を機に店を閉じて一旦江戸に出て武家社会に入る。..

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板倉 勝静

【1823~1889】 幕末の老中・備中松山藩第7代藩主。文政6(1823)年、陸奥(福島県)白河城で松平越中守定永の8男として生まれる。勝静が20歳の天保13(1842)年6月、備中松山藩第6代藩主板倉勝職に嗣子が無いので養子となり、嘉永2(1849)年4月、藩主板倉勝職が病で藩主を退いたため、..

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井戸 平左衛門

【1672~1733】世に「いも代官」と呼ばれた名代官である。享保16(1731)年9月、60歳のとき、石見銀山を受け持つ石見国大森(現島根県大田市)の代官に任命された。翌17(1732)年から、備中国笠岡代官を兼務した。時に西日本一帯はウンカの大発生によって未曾有の大飢饉となっていた。..

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内山 完造

【1885~1959】明治18(1885)年、後月郡吉井村(井原市芳井町吉井)に生まれる。明治30(1897)年、商店に丁稚奉公するために大阪へ出る。28歳のとき参天堂に入り、参天堂目薬の中国での広告と販売を任せられ、上海へ移住する。完造が、薬の売り込みのために中国や台湾に出歩いている留守の間、妻のみきが、..

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太田 辰五郎

【1790~1854】寛政2(1790)年、阿賀郡実村(新見市千屋実)に太田政蔵の長男として生まれる。太田家は、代々鉄山業を経営しており、当時、十指に余る鉄山を有し、近隣に並ぶ者なき有力者であった。天保2(1831)年、父の死により家督を相続すると、鉄山業に専心する一方、..

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大野 昭和斎

【1912~1996】 明治45(1912)年、指物師の斎三郎の長男として総社市に生まれる。本名は、片岡誠喜男(かたおかせきお)。 大正15(1926)年、西阿知尋常高等小学校を卒業と同時に、指物師の父について木工芸の道に入る。..

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大原 總一郎

【1909~1968】明治43(1909)年、都窪郡倉敷町(倉敷市)に大原孫三郎の子として生まれる。昭和7(1932)年、倉敷絹織株式会社(クラレ)に入社。昭和11(1936)年から昭和13(1938)年にかけてヨーロッパ各国を視察し、繊維工業の実情や文化活動への見聞をひろめる。..

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大原 孫三郎

【1880~1943】明治13(1880)年、窪屋郡倉敷村(倉敷市)に生まれる。幼少期は習字と図画が上手だったが、奔放な面もあってあまり学問を好まない青年であった。ただ、社会事業や社会問題への関心は既に持ち合わせており、父・孝四郞が、子である自分の失敗を目の前で見事に拭ったことや、..

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大山 康晴

【1923~1992】大正12(1923)年、浅口郡河内町西阿知(倉敷市西阿知町)に生まれる。8歳のころに平井長之丞二段(アマチュア)の指導を受け、小学校卒業と同時に大阪に出て同郷の木見金次郎九段の内弟子になる。15歳で初段、20歳で六段、昭和22(1947)年に七段に昇段。..

小川 郷太郎

【1876~1945】明治9(1876)年、浅口郡新庄村川南(里庄町新庄)で村山菊蔵の長男として生まれる。醇成小学校、生石高等小学校、岡山中学校を経て第一高等学校に進み、東京帝国大学政治学科を主席で卒業。恩賜の銀時計を受けた。中途で小川知彰の養子となり、小川姓となる。..

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小野 竹喬

【1889~1979】14歳から89歳にいたる75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けた。本名は英吉。当初は竹橋とも号した。 明治22(1889)年、小田郡笠岡村(笠岡市笠岡西本町)で、商家の四男として生まれた。祖父は南画家の白神澹庵、長兄は小野竹桃である。..

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川田 甕江

【1835~1896】天保6(1835)年、浅口郡阿賀崎新田村(倉敷市玉島阿賀崎)に生まれる。隣村・長尾村の小野務に和歌を学んだ後、備中松山藩校教授・鎌田玄渓に入門。藩士に推挙され、昌平黌に入って古賀茶渓(儒官・漢学者・洋学者)・大橋訥庵(儒学者)のもとで学ぶ。..

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吉備真備

【695~775】持統天皇9(695)年、備中国下道郡出身で右衛士少尉(うえじのしようじよう)(中央政府警備兵下級指揮官)の下道朝臣圀勝の子として、藤原京内かその周辺で生まれたであろうと推察されている。..

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木山 捷平

【1904~1968】明治37(1904)年、小田郡新山村(笠岡市山口)に生まれる。姫路師範学校を卒業して教師となるが、大正14(1925)年に、文学を志して上京。詩人、そして小説家として作家活動を開始する。昭和19(1944)年、文筆活動の新天地を求めて旧満州国(中国東北部)に赴くが、現地召集を受けて入隊。..

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児島 虎次郎

【1881年~1929年】明治14(1881)年、川上郡下原村(高梁市成羽町)で生まれた。幼少から画才をあらわし、画家を志して上京。明治35(1902)年、黒田清輝、藤島武二らが教鞭をとる東京美術学校西洋画科選科に入学する。成績優秀で飛び級し、..

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小寺 清先

【1748~1827】寛延元(1748)年、笠岡村の陣屋稲荷(笠岡小学校裏山にある)の神職の子として生まれた。通称常陸之介。京都で卜部氏に神道を、和歌を澄月に学ぶ。家職を継いだが、のちに長男の清之に神職をゆずり、自ら「楢園」と号した。 寛政10(1798)年、笠岡に郷学「敬業館」が創設された。..

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坂田 一男

【1889~1956】明治22(1889)年、岡山市船頭町で医学者・坂田快太郎の長男として生まれる。岡山中学校(岡山朝日高等学校)卒業後、高等学校入試に失敗し、予備校に通うも進学がかなわなかったことから画家の道を志す。..

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阪谷 朗蘆

【1822~1881】文政5(1822)年、川上郡九名村(井原市美星町明治)の庄屋を務めた坂田家に生まれる。父について大和・大坂に移り、大坂では大塩平八郎に学んでいる。さらに朗盧は江戸に出て、昌谷精渓・古賀侗庵に学んだ。..

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薄田 泣菫

【1877~1945】 明治10(1877)年、浅口郡大江連島村(倉敷市連島町連島)の西薄田家に生まれる(明治15年=1882年に父・篤太郎が薄田本家を嗣ぐ)。明治24(1891)年に岡山県尋常中学校(県立岡山朝日高校)に入学するが、体操が不得手で2年で中退した。..

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雪舟

【1420~1506】応永27(1420)年、備中赤浜(総社市赤浜)に生まれる。このことは、重玄寺(井原市)の千畝周竹の語録『也足外集』から想定することができる。そして、幼少期に修業に入った宝福寺で涙でネズミを描いたという逸話がよく知られている。..

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田中 塊堂

【1896~1976】明治29(1896)年、小田郡山田村(小田郡矢掛町)に生まれる。本名を英一といい、矢掛尋常高等小学校を卒業後、大阪に上り、大阪貿易学校を卒業。書を川谷尚亭氏に、漢文を藤沢黄坡氏に学んだ。..

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津田 白印

【1862~1946】僧侶・画家にして事業家。南画を学び、優れた花卉図や山水画を多数残した。本名は明導(めいどう)だが、白印または白導人(はくどうじん)として知られる。 文久2(1862)年、笠岡の浄土真宗浄心寺住職の次男として生まれる。30歳のときに、奈良監獄(刑務所)の教誨師となったが、少年囚の教化に取り組むうちに、..

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戸川 安宅

【1855~1924】早島戸川家最後の領主。慶応元(1865)年3月に、病身の兄安道の名代として上京し、勤王の意を表し9月まで京にとどまり家督相続を命じられた。明治元(1868)年、家督を継ぎ、早島戸川家13代目領主となるが、同2年6月の版籍奉還とともに..

仁科 芳雄

【1890~1951】「日本の原子物理学の父」と呼ばれるの偉人。明治23(1890)年、浅口郡里庄村浜中(里庄町浜中)で仁科在正の四男として生まれる。新庄尋常小学校、生石高等小学校、岡山中学校、第六高等学校を経て東京帝国大学で電気工学を学び主席で卒業。恩賜の銀時計を受ける。..

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西林 國橋

【1764年~1828年】明和元(1764)年、川上郡落合町福地(高梁市落合町福地)の神官、西林玄蕃忠盛の次男に生まれる。本名は要人、織衣亮盛堯(おりいのすけもりたか)と称し、国橋と号した。..

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野﨑 武左衛門

【1789~1864】寛政元(1789)年、児島郡味野村(倉敷市児島味野)に生まれる。文化4(1807)年18歳の頃に、足袋の製造・販売を手がけ、数年後には工場制手工業主に発展するが、文政9(1826)年頃に行き詰まり、塩田開発へ視点を変える。..

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平櫛 田中

【1872~1979】明治5(1872)年、後月郡西江原村(井原市西江原町)に生まれる。福山の平櫛家へ養子に入ったが、すぐに大阪へ奉公に出る。その後、彫刻に興味を持ち、人形師中谷省古に弟子入りし、彫刻の手ほどきを受け、さらに奈良に出て多くの優れた仏像を見て、彫刻の研究を進めた。..

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福西 志計子

【1847年~1898年】弘化4(1847)年、備中松山藩士福西伊織の長女として、備中松山城下加賀町(高梁市御前町)で生まれる。7歳のとき、父親を失い母の手一つで育てられる。..

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古川 古松軒

【1726~1807】高松城水攻地理の図には、天正10年(1582年)、羽柴(豊臣)秀吉が高松城の水攻めを行ったときの様子が描かれている。 享保11(1726)年、下道郡新本村(総社市新本)に生まれる。..

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堀 和平

【1841~1892】天保12(1841)年、両替商、回船問屋、酒類の販売などを営む豪商・堀家の四男として、賀陽郡八田部村(総社市総社)に生まれる。名は、堀和平安郷(やすさと)。..

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本田 實

【1913~1990】大正2(1913)年、鳥取県八頭郡八東村(八頭郡八頭町)に生まれる。少年の頃から星に興味を持っており、昭和2(1927)年頃、28ミリシングルレンズを購入して望遠鏡を自作し、土星の環や木星の衛星を見る。..

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丸川 松隠

【1758~1831】宝暦8(1758)年、浅口郡西阿智村(倉敷市西阿知町)に生まれる。名は、茂延。通称一郎といい、松隠はその号。家系は代々新見藩に仕えていたが、父の代には仕籍を離れる。幼少時に母の訓陶を受け学問の才を現し、6歳で書を読み、字を書いた。..a

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三島 中洲

【1830~1919】天保元(1830)年、窪屋郡中島村(倉敷市中島)に生まれる。14歳で山田方谷に学び、早くから文才が認められている。23歳のときに津藩(三重県津市)の儒学者・斎藤拙堂に詩文や文学を、漢学者・石川竹崖から経学(けいがく)を学ぶ。..

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満谷 国四郎

【1874~1936】明治7(1874)年、賀陽郡門田村(総社市門田)に生まれる。現在は、雪舟が修行した宝福寺(総社市井尻野)に満谷国四郎の顕彰碑が建てられている。叔父は、岡山洋画の先駆者と知られる堀和平である。幼い国四郎は堀家に行くたびに和平の画技を見て強く心をうたれた。..

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森田 思軒

【1861~1897】文久元(1861)年、笠岡村(笠岡市笠岡西本町)に生まれる。本名は文蔵。慶應義塾,興譲館(井原市西江原)に学び、明治15(1882)年に上京。矢野龍渓の主宰する郵便報知新聞社に入社し、文筆家、新聞記者として活躍する。..

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安原備中守

【?-1623】備中国早島塩津村(早島町早島)の生まれで、諱を初め智種といった。天正ごろに石見銀山の経営にあたり、銀の鉱脈を掘り当て、釜屋間歩とよばれる鉱抗などを開発したために成功をおさめた。..

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山田 方谷

【1805~1877】 備中松山藩士。文化2(1805)年、阿賀郡西方村(高梁市中井町西方)の農商の家に生まれ、5歳で新見藩儒丸川松隠に学ぶ。 文政8(1825)年21歳のとき、篤学の名声が広まり、松山藩主板倉勝職に聞え認められ二人扶持を支給される。..

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山室 軍平

【1872~1940】明治5(1872)年、哲多郡則安村(新見市哲多町)に生まれる。明治14(1881)年、賀陽郡上足守村の杉本家に養子入する。松浦黙(漢学者)の塾で学び、儒学の素養を身につける。..

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横溝 正史

【1902~1981】明治35(1902)年、神戸市に生まれる。父親は浅口郡船穂町柳井原(倉敷市船穂町柳井原)出身。中学生時代から探偵(推理)小説を読みふけており、大正10(1921)年に雑誌『新青年』の懸賞に応募した「恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)」が入選する。..

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米川 文子

【1894年~1995年】人間国宝、高梁市名誉市民。明治27(1894)年、高梁市間之町で生まれる。幼少のころから父親について筝曲(生田流)を、姉からは琴の手ほどきを受け、筝曲、地唄、三弦の厳しい修業をした。..

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良寛

【1758~1831】宝暦8(1758)年、越後国三島郡出雲崎(新潟県出雲崎町)に生まれる。幼名を栄蔵といい、昼行灯(ひるあんどん)とあだ名されるほどに社交性に欠ける側面もあったが、温和、純真で感受性が強いとともに、和漢の書物を読み理解していた頭脳明晰で探求心旺盛な少年であった。..

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太田 辰五郎

【1790~1854】寛政2(1790)年、阿賀郡実村(新見市千屋実)に太田政蔵の長男として生まれる。太田家は、代々鉄山業を経営しており、当時、十指に余る鉄山を有し、近隣に並ぶ者なき有力者であった。天保2(1831)年、父の死により家督を相続すると、鉄山業に専心する一方、..

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丸川 松隠

【1758~1831】宝暦8(1758)年、浅口郡西阿智村(倉敷市西阿知町)に生まれる。名は、茂延。通称一郎といい、松隠はその号。家系は代々新見藩に仕えていたが、父の代には仕籍を離れる。幼少時に母の訓陶を受け学問の才を現し、6歳で書を読み、字を書いた。..a

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山田 方谷

【1805~1877】 備中松山藩士。文化2(1805)年、阿賀郡西方村(高梁市中井町西方)の農商の家に生まれ、5歳で新見藩儒丸川松隠に学ぶ。 文政8(1825)年21歳のとき、篤学の名声が広まり、松山藩主板倉勝職に聞え認められ二人扶持を支給される。..

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山室 軍平

【1872~1940】明治5(1872)年、哲多郡則安村(新見市哲多町)に生まれる。明治14(1881)年、賀陽郡上足守村の杉本家に養子入する。松浦黙(漢学者)の塾で学び、儒学の素養を身につける。..

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秋庭 重信

【生没年不詳】 鎌倉時代の武士。備中国上房郡有漢郷(高梁市有漢町)の地頭。通称は三郎という。秋庭氏は、もと相模の国(神奈川県)の武士であったが、重信は承久3(1221)年に起こった承久の乱の軍功があり、..

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板倉 勝静

【1823~1889】 幕末の老中・備中松山藩第7代藩主。文政6(1823)年、陸奥(福島県)白河城で松平越中守定永の8男として生まれる。勝静が20歳の天保13(1842)年6月、備中松山藩第6代藩主板倉勝職に嗣子が無いので養子となり、嘉永2(1849)年4月、藩主板倉勝職が病で藩主を退いたため、..

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児島 虎次郎

【1881年~1929年】明治14(1881)年、川上郡下原村(高梁市成羽町)で生まれた。幼少から画才をあらわし、画家を志して上京。明治35(1902)年、黒田清輝、藤島武二らが教鞭をとる東京美術学校西洋画科選科に入学する。成績優秀で飛び級し、..

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留岡 幸助

【1864年~1934年】社会福祉事業の先覚者。元治元(1864)年、高梁市新町で髪結床を営んでいる吉田家に生まれたが、南町で米屋を営む吉田家の養子となる。行商中に飲んだ谷川の水が原因で肺ジストマを患い、治療のため、中間町の医師でキリスト教信者の赤木蘇平宅に身を寄せた。..

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西林 國橋

【1764年~1828年】明和元(1764)年、川上郡落合町福地(高梁市落合町福地)の神官、西林玄蕃忠盛の次男に生まれる。本名は要人、織衣亮盛堯(おりいのすけもりたか)と称し、国橋と号した。..

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福西 志計子

【1847年~1898年】弘化4(1847)年、備中松山藩士福西伊織の長女として、備中松山城下加賀町(高梁市御前町)で生まれる。7歳のとき、父親を失い母の手一つで育てられる。..

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山田 方谷

【1805~1877】 備中松山藩士。文化2(1805)年、阿賀郡西方村(高梁市中井町西方)の農商の家に生まれ、5歳で新見藩儒丸川松隠に学ぶ。 文政8(1825)年21歳のとき、篤学の名声が広まり、松山藩主板倉勝職に聞え認められ二人扶持を支給される。..

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米川 文子

【1894年~1995年】人間国宝、高梁市名誉市民。明治27(1894)年、高梁市間之町で生まれる。幼少のころから父親について筝曲(生田流)を、姉からは琴の手ほどきを受け、筝曲、地唄、三弦の厳しい修業をした。..

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雪舟

【1420~1506】応永27(1420)年、備中赤浜(総社市赤浜)に生まれる。このことは、重玄寺(井原市)の千畝周竹の語録『也足外集』から想定することができる。そして、幼少期に修業に入った宝福寺で涙でネズミを描いたという逸話がよく知られている。..

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古川 古松軒

【1726~1807】高松城水攻地理の図には、天正10年(1582年)、羽柴(豊臣)秀吉が高松城の水攻めを行ったときの様子が描かれている。 享保11(1726)年、下道郡新本村(総社市新本)に生まれる。..

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堀 和平

【1841~1892】天保12(1841)年、両替商、回船問屋、酒類の販売などを営む豪商・堀家の四男として、賀陽郡八田部村(総社市総社)に生まれる。名は、堀和平安郷(やすさと)。..

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満谷 国四郎

【1874~1936】明治7(1874)年、賀陽郡門田村(総社市門田)に生まれる。現在は、雪舟が修行した宝福寺(総社市井尻野)に満谷国四郎の顕彰碑が建てられている。叔父は、岡山洋画の先駆者と知られる堀和平である。幼い国四郎は堀家に行くたびに和平の画技を見て強く心をうたれた。..

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戸川 安宅

【1855~1924】早島戸川家最後の領主。慶応元(1865)年3月に、病身の兄安道の名代として上京し、勤王の意を表し9月まで京にとどまり家督相続を命じられた。明治元(1868)年、家督を継ぎ、早島戸川家13代目領主となるが、同2年6月の版籍奉還とともに..

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安原備中守

【?-1623】備中国早島塩津村(早島町早島)の生まれで、諱を初め智種といった。天正ごろに石見銀山の経営にあたり、銀の鉱脈を掘り当て、釜屋間歩とよばれる鉱抗などを開発したために成功をおさめた。..

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池田 遥邨

【1895~1988】明治28(1895)年、岡山市門田屋敷(両親の当時の居住地)生まれと推察される(本籍地は浅口郡乙島村=倉敷市玉島)。幼少期から絵を描くことが好きで、明治43(1910)年に15歳で大阪に出て洋画家・松原三五郎の天彩画塾で学ぶ。..

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磯崎 眠亀

【1834~1908】天保5(1834)年、都宇郡帯江新田村(倉敷市茶屋町)の織物屋・児島屋の家に生まれる。児島屋は札元として藩札の発行等にも関与していたが、それが仇となり、父の急死を機に店を閉じて一旦江戸に出て武家社会に入る。..

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大野 昭和斎

【1912~1996】 明治45(1912)年、指物師の斎三郎の長男として総社市に生まれる。本名は、片岡誠喜男(かたおかせきお)。 大正15(1926)年、西阿知尋常高等小学校を卒業と同時に、指物師の父について木工芸の道に入る。..

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大原 總一郎

【1909~1968】明治43(1909)年、都窪郡倉敷町(倉敷市)に大原孫三郎の子として生まれる。昭和7(1932)年、倉敷絹織株式会社(クラレ)に入社。昭和11(1936)年から昭和13(1938)年にかけてヨーロッパ各国を視察し、繊維工業の実情や文化活動への見聞をひろめる。..

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大原 孫三郎

【1880~1943】明治13(1880)年、窪屋郡倉敷村(倉敷市)に生まれる。幼少期は習字と図画が上手だったが、奔放な面もあってあまり学問を好まない青年であった。ただ、社会事業や社会問題への関心は既に持ち合わせており、父・孝四郞が、子である自分の失敗を目の前で見事に拭ったことや、..

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大山 康晴

【1923~1992】大正12(1923)年、浅口郡河内町西阿知(倉敷市西阿知町)に生まれる。8歳のころに平井長之丞二段(アマチュア)の指導を受け、小学校卒業と同時に大阪に出て同郷の木見金次郎九段の内弟子になる。15歳で初段、20歳で六段、昭和22(1947)年に七段に昇段。..

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川田 甕江

【1835~1896】天保6(1835)年、浅口郡阿賀崎新田村(倉敷市玉島阿賀崎)に生まれる。隣村・長尾村の小野務に和歌を学んだ後、備中松山藩校教授・鎌田玄渓に入門。藩士に推挙され、昌平黌に入って古賀茶渓(儒官・漢学者・洋学者)・大橋訥庵(儒学者)のもとで学ぶ。..

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吉備真備

【695~775】持統天皇9(695)年、備中国下道郡出身で右衛士少尉(うえじのしようじよう)(中央政府警備兵下級指揮官)の下道朝臣圀勝の子として、藤原京内かその周辺で生まれたであろうと推察されている。..

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児島 虎次郎

【1881年~1929年】明治14(1881)年、川上郡下原村(高梁市成羽町)で生まれた。幼少から画才をあらわし、画家を志して上京。明治35(1902)年、黒田清輝、藤島武二らが教鞭をとる東京美術学校西洋画科選科に入学する。成績優秀で飛び級し、..

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坂田 一男

【1889~1956】明治22(1889)年、岡山市船頭町で医学者・坂田快太郎の長男として生まれる。岡山中学校(岡山朝日高等学校)卒業後、高等学校入試に失敗し、予備校に通うも進学がかなわなかったことから画家の道を志す。..

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薄田 泣菫

【1877~1945】 明治10(1877)年、浅口郡大江連島村(倉敷市連島町連島)の西薄田家に生まれる(明治15年=1882年に父・篤太郎が薄田本家を嗣ぐ)。明治24(1891)年に岡山県尋常中学校(県立岡山朝日高校)に入学するが、体操が不得手で2年で中退した。..

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野﨑 武左衛門

【1789~1864】寛政元(1789)年、児島郡味野村(倉敷市児島味野)に生まれる。文化4(1807)年18歳の頃に、足袋の製造・販売を手がけ、数年後には工場制手工業主に発展するが、文政9(1826)年頃に行き詰まり、塩田開発へ視点を変える。..

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本田 實

【1913~1990】大正2(1913)年、鳥取県八頭郡八東村(八頭郡八頭町)に生まれる。少年の頃から星に興味を持っており、昭和2(1927)年頃、28ミリシングルレンズを購入して望遠鏡を自作し、土星の環や木星の衛星を見る。..

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三島 中洲

【1830~1919】天保元(1830)年、窪屋郡中島村(倉敷市中島)に生まれる。14歳で山田方谷に学び、早くから文才が認められている。23歳のときに津藩(三重県津市)の儒学者・斎藤拙堂に詩文や文学を、漢学者・石川竹崖から経学(けいがく)を学ぶ。..

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横溝 正史

【1902~1981】明治35(1902)年、神戸市に生まれる。父親は浅口郡船穂町柳井原(倉敷市船穂町柳井原)出身。中学生時代から探偵(推理)小説を読みふけており、大正10(1921)年に雑誌『新青年』の懸賞に応募した「恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)」が入選する。..

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良寛

【1758~1831】宝暦8(1758)年、越後国三島郡出雲崎(新潟県出雲崎町)に生まれる。幼名を栄蔵といい、昼行灯(ひるあんどん)とあだ名されるほどに社交性に欠ける側面もあったが、温和、純真で感受性が強いとともに、和漢の書物を読み理解していた頭脳明晰で探求心旺盛な少年であった。..

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赤松 月船

【1897~1997】明治30(1897)年、浅口郡鴨方村(浅口市鴨方町)の農家に生まれる。小学校卒業と同時に井原市の善福寺住職赤松仏海の養子となる。明治42(1909)年、13歳で得度し、名を「月船」と改めた。大正3(1914)年に愛媛県新居浜の瑞雲寺、続いて大正5(1916)年に総本山永平寺へ雲水修行に出る。..

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石井 直三郎

【1890~1936】明治23(1890)年、小田郡矢掛村(小田郡矢掛町)に生まれる。生家は数々の大名や幕府の役人が泊まったとされる本陣職を代々務めていた石井家の分家である。矢掛中学から第六高等学校、東京帝国大学文科大学国文科に進学。..

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吉備真備

【695~775】持統天皇9(695)年、備中国下道郡出身で右衛士少尉(うえじのしようじよう)(中央政府警備兵下級指揮官)の下道朝臣圀勝の子として、藤原京内かその周辺で生まれたであろうと推察されている。..

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田中 塊堂

【1896~1976】明治29(1896)年、小田郡山田村(小田郡矢掛町)に生まれる。本名を英一といい、矢掛尋常高等小学校を卒業後、大阪に上り、大阪貿易学校を卒業。書を川谷尚亭氏に、漢文を藤沢黄坡氏に学んだ。..

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内山 完造

【1885~1959】明治18(1885)年、後月郡吉井村(井原市芳井町吉井)に生まれる。明治30(1897)年、商店に丁稚奉公するために大阪へ出る。28歳のとき参天堂に入り、参天堂目薬の中国での広告と販売を任せられ、上海へ移住する。完造が、薬の売り込みのために中国や台湾に出歩いている留守の間、妻のみきが、..

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馬越 恭平

【1844~1933】天保15(1844)年、後月郡木之子村(井原市木之子町)で代々医者をしていた家に生まれる。興譲館の阪谷朗廬のもとで学んだ後、大坂に出て鴻池で丁稚奉公したのち、明治6(1873)年、井上馨が起こした三井物産の前身である先収会社に入り、..

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阪谷 朗蘆

【1822~1881】文政5(1822)年、川上郡九名村(井原市美星町明治)の庄屋を務めた坂田家に生まれる。父について大和・大坂に移り、大坂では大塩平八郎に学んでいる。さらに朗盧は江戸に出て、昌谷精渓・古賀侗庵に学んだ。..

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平櫛 田中

【1872~1979】明治5(1872)年、後月郡西江原村(井原市西江原町)に生まれる。福山の平櫛家へ養子に入ったが、すぐに大阪へ奉公に出る。その後、彫刻に興味を持ち、人形師中谷省古に弟子入りし、彫刻の手ほどきを受け、さらに奈良に出て多くの優れた仏像を見て、彫刻の研究を進めた。..

赤沢 文治

【1814~1883】文化11(1814)年、浅口郡占見村(浅口市金光町占見)の農家の次男に生まれた。12才で同郡大谷村(金光町大谷)の農民川手家の養子となるが、養父の遺言で赤沢姓に変え、家督を継いだ。..

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阿藤 伯海

【1894~1965】明治27(1894)年、浅口郡六条院村東相部(浅口市鴨方町)に生まれる。俗称を伯海、大簡と号した。祖父の嘉平は、家塾を開き、『嶺南精舎』と称し、父の暦太は、村会議員、銀行支店長等を勤めた。伯海は、男子6人の長子たり。..

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西山 拙斎

【1735~1798】「鴨方に過ぎたるものが三つある。拙斎、索我、宮の石橋」と歌われ、いまなお土地の人々から慕われているのが、江戸時代後期の儒学者西山拙斎である。享保20年(1735)、備中国鴨方村(浅口市鴨方町)に医者恕玄の子として生まれた。名は正、号は拙斎。..

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小川 郷太郎

【1876~1945】明治9(1876)年、浅口郡新庄村川南(里庄町新庄)で村山菊蔵の長男として生まれる。醇成小学校、生石高等小学校、岡山中学校を経て第一高等学校に進み、東京帝国大学政治学科を主席で卒業。恩賜の銀時計を受けた。中途で小川知彰の養子となり、小川姓となる。..

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仁科 芳雄

【1890~1951】「日本の原子物理学の父」と呼ばれるの偉人。明治23(1890)年、浅口郡里庄村浜中(里庄町浜中)で仁科在正の四男として生まれる。新庄尋常小学校、生石高等小学校、岡山中学校、第六高等学校を経て東京帝国大学で電気工学を学び主席で卒業。恩賜の銀時計を受ける。..

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井戸 平左衛門

【1672~1733】世に「いも代官」と呼ばれた名代官である。享保16(1731)年9月、60歳のとき、石見銀山を受け持つ石見国大森(現島根県大田市)の代官に任命された。翌17(1732)年から、備中国笠岡代官を兼務した。時に西日本一帯はウンカの大発生によって未曾有の大飢饉となっていた。..

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小野 竹喬

【1889~1979】14歳から89歳にいたる75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けた。本名は英吉。当初は竹橋とも号した。 明治22(1889)年、小田郡笠岡村(笠岡市笠岡西本町)で、商家の四男として生まれた。祖父は南画家の白神澹庵、長兄は小野竹桃である。..

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木山 捷平

【1904~1968】明治37(1904)年、小田郡新山村(笠岡市山口)に生まれる。姫路師範学校を卒業して教師となるが、大正14(1925)年に、文学を志して上京。詩人、そして小説家として作家活動を開始する。昭和19(1944)年、文筆活動の新天地を求めて旧満州国(中国東北部)に赴くが、現地召集を受けて入隊。..

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小寺 清先

【1748~1827】寛延元(1748)年、笠岡村の陣屋稲荷(笠岡小学校裏山にある)の神職の子として生まれた。通称常陸之介。京都で卜部氏に神道を、和歌を澄月に学ぶ。家職を継いだが、のちに長男の清之に神職をゆずり、自ら「楢園」と号した。 寛政10(1798)年、笠岡に郷学「敬業館」が創設された。..

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津田 白印

【1862~1946】僧侶・画家にして事業家。南画を学び、優れた花卉図や山水画を多数残した。本名は明導(めいどう)だが、白印または白導人(はくどうじん)として知られる。 文久2(1862)年、笠岡の浄土真宗浄心寺住職の次男として生まれる。30歳のときに、奈良監獄(刑務所)の教誨師となったが、少年囚の教化に取り組むうちに、..

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森田 思軒

【1861~1897】文久元(1861)年、笠岡村(笠岡市笠岡西本町)に生まれる。本名は文蔵。慶應義塾,興譲館(井原市西江原)に学び、明治15(1882)年に上京。矢野龍渓の主宰する郵便報知新聞社に入社し、文筆家、新聞記者として活躍する。..